neutron Gallery - 三瀬 夏之介 展 『 日本の絵 』 - 
2005/7/4 Mon - 17 Sun gallery neutron kyoto
ニュートロンアーティスト登録作家  三瀬夏之介 (日本画)

日本画という古い殻を撃ち破り、時代の表現として活発にアクションを起こす『日 本画ジャック』の首謀者でもありながら、日本画界のみならず期待のホープとして全 国的に注目を浴びる三瀬が早くも登場!今回描くのは古来から脈々と描かれてきたモ チーフ「富士山」。この大きい存在をどう映し、時代の表現に結び付けるのか。作者 入魂の作品は金色に光り輝く!





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gallery neutron 代表 石橋圭吾

 「日本画」では無い。今回、三瀬が提示するのは「日本の絵」だ。これまでにも日本画あるいは美術そのものに対する強いアンチテーゼを孕む一方、王道とも言える力技と子供のようなファンタジーによって私達を魅了してきた作家が投げかける言葉には、かなりの決意が込められているように感じる。「日本画」という美術界の中の範疇はもはや彼にとって肯定も否定も済ませた抜け殻に過ぎず、自らが切り開く地平のみを見定めているとすれば、あまりにもシンプルに聞こえるこのタイトルが持つ意味は大きい。彼が「日本」という出自を愛し、自らのアイデンティティをその単語の中にしっかりと認識してなお、大上段に構えて降り下ろす刀には「日本」と刻み込んでいるのは現代の日本を清濁合わせ飲んで愛し、牽引していかんとする決意の現れであるからだ。昨年秋の日経日本画大賞展において最年少ノミネートされ一躍時の人となった彼は、もはや従来の「奈良(地元)」や「関西」という括りではなく、「日本」というローカルにポイントを移したのだ。その先には、当然世界がある。
 彼の生み出す作品は平面を基本としながらも時として立体作品であり、インスタレーションでもある。しかしそれらは鑑賞者の多くに難しい解釈を要求することなく、ダイレクトに影響を及ぼす力強さにおいて共通している。私達は彼の作品を見る時、邪念を捨て、まるで童心に帰るかのような無邪気さをもって対峙することさえできれば、彼の作品の持つあまりにも大きい包容力と壮大な夢物語に浸ることができる。彼の描く光景は子供の夢であり、それは大人になっても捨ててはならない純粋な気持ちでもある。それらは主に日本画の材料として知られる画材や顔料はもちろん、どこにでも落ちている木切れやゴミのような物体で成り立っている。すなわちそれらは合成着色料を排した有機物の塊のような物体であり、天然肥料と純粋培養によって育まれた夢想はその物体に魂を宿す。「土着」という言葉が似合う作家でありながら、一方で現代的な問題意識とグラフィックセンスが際立ち、実に見事に調和・配合されている。これほどのバランス感覚と力強さに溢れる作家は、そうは居ないだろう。それこそが三瀬作品の最大の魅力でもある。
 「日本の絵」として描かれるのは、富士山であると言う。ここにきてなぜそこまで「日本」的なモチーフが登場するかは、彼の言葉を聞くしかない。彼は富士山に登ったことが無いと言うし、そのリアリティーの欠如ですら作品に活かそうとしている。しかし私が思うに彼は純粋に富士山を日本の象徴として捉え、古来から脈々と受けつがれ描かれてきた富士山にオマージュを捧げると同時に、「日本一大きなモチーフ」と対峙することの喜びを感じて描こうとしているのでは無いか。そうすることによって彼の絵はさらなる力強さと日本人が共有する多くの感覚を飲み込み、作品としての唯一のリアリティーを手に入れる。そしてその富士は、今回はパネル張られていない和紙に描かれる。その和紙は一面、金の箔を帯びている。まさしく「金の富士」である。画家・三瀬夏之介が2005年に描く富士は、後生にまで語り継がれる「日本の絵」となるのだろうか。荘厳な輝きと存在感を全身で受け止めるもよし。まるで銭湯に漬かるがごとくのほほんと眺めるもよし。富士山も日本画も、そして美術というものも、誰からも愛されていくならば三瀬の本望か。