neutron Gallery - 森 太三 展 『Rain』 -
2009/3/3 Sat - 15 Sun gallery neutron Kyoto
森 太三 (彫刻 / インスタレーション)

 古代の人々が木や石などの自然物を彫る事によって、土着的な信仰のよりどころとしたのなら、現代の彫刻はどのような素材に何を込めようとするのだろうか?
 森太三は印刷物や軽量粘土など、既成品であり消費の対象ともなり得る軽やかな素材を用いつつ、圧倒的な量や途方もない単調の作業の繰り返しによる制作で、屋外内問わず意欲的なインスタレーションを発表してきた。
 neutron初登場となる気鋭の作家が、鮮やかで多様な雨粒を蓄える時、そこに何が見えるのだろうか。




comment
ニュートロン代表 石橋圭吾

 彫刻とはつくづく面白い表現だと思う。まず、「彫刻」という言葉そのものからして、「彫る」「刻む」というマイナス(無)のベクトルの作業を並べていながら、出来上がるはずの物はプラス(有)の存在を期待されている。実際には削ったりするだけではなく粘土やあらゆる素材を重ねたり・付け加えたり・焼いたり・潰したりも「彫刻」作品であったりするので、いわゆる古典的な彫像などをイメージしてしまうと、現代彫刻あるいはインスタレーションという形態のものを見た時に、「え、これが彫刻なの?」と戸惑う人も少なくはない。しかし再び「彫刻」という名前に戻るとき、私は英語の「sculpture」よりも日本語の「彫刻」という言葉に、木や石などの自然物に槌やノミを入れる行為によって、その対象物に宿る神聖な存在を掘り起こす作業であった名残を感じずにはいられない。そう考えると、現代の彫刻家はどんな素材を用い、その中に何を見いだそうとしているのだろうか。

  森太三は、既に京都を拠点として10年以上のキャリアを持ち、評価も固まりつつある作家である。その制作は紙や軽量粘土といった、いかにも重さを感じさせない素材を用いながら、必ずや展示空間をがらりと変貌させる作品として発表される。床面いっぱいに広がる展示もあれば、時に壁面にぺったりと張り付くような、平面的なものもある。しかしそれらは一貫して「彫刻」としての立体的な存在感をもつものであり、例え微かな凹凸であったとしても作者の意図が空間を支配し、その作品が存在することにより空間は本来以上のものを引き出されることになる。

 素材もまたしかり。森太三の用いる、どこにでもありふれた素材と、変哲もない色彩(印刷物の色であったり、既製の着色であったり)の寄せ集めのような群集はしかし、圧倒的な量と質(それらは全て手作業で作られており、膨大な労力と時間がかけられている)によって静かに化学変化を起こすかの様に、鑑賞者の眼前に悠々と、誇らしげに存在する。古来の彫刻家が自然物から神を彫り出したとするならば、森太三は現代文明において大量消費される素材に魂を吹き込み、まるで自らが創造主たる神のように、イマジネーションの森であり海であり、空を作り上げようとしているのだ。

 ニュートロンでの初めての個展となる今回は、近年のシリーズである軽量粘土の粒を使った新作「Rain」を展開する。豆粒ほどの小さなカラフルな粘土の玉は、もちろん全て作家の手によって捏ねられ、微妙な形状と大きさの違いは圧倒的な量となる時に「うねり」を生み出す。作家自身が見せるのはまさにその手作業の連続性と、一貫性によって生み出される大きくて静かな現象であり、ひとたび彼の作品に導かれた時(世界の捉え方が少し変化した時)、私たちはきっと、わずかな起伏や小さな粒の一つ一つから生まれる想像の世界の大きさに、重力を失った気持ちになるだろう。特に今回の展示においては、今まではだいたいワイヤーで連結されて空間に張り巡らされていた粒達が、床一面を埋め尽くすと言う。その数たるや、ワイヤーで展開されていた時の比ではない。多ければいいと言う物でもないだろうが、しかし一人の作家の手によってひたすらに作られる粒達は、もはや作家でも支配できない
ほどに存在を膨張させ、イメージの海を創造するのだろうか。

 最後にタイトルの「Rain」とは。軽量粘土の粒を「雨粒」と見立てる事もきっと正解であろう。

 しかし雨はやがて地中にしみ込んで地下水となり、湧き水となり、川となり、海に流れて大海を成す。一滴の雨粒がそうやって世界を巡る様に、森太三の「Rain」もまた、一粒一粒がやがて大きな世界を作り出す。それはまた、まるで私たち一人一人がこの世界の住人であり、一人一人がこの世界を構成していることにも似ている。