neutron Gallery - 西山 裕希子 展 -
2010/3/2 Tue - 14 Sun gallery neutron kyoto (最終日21:00迄)
ニュートロンアーティスト登録作家 西山 裕希子 (平面、インスタレーション)

古典技法「ろうけつ染め」や最新のインクジェットプリントなどの技法を駆使し平面上に描くのは、人と人との物理的な距離ではなく「心理的な距離」と曖昧な輪郭としての存在。

染織だけでなく版画やインスタレーションとしての性質も持ち合わせた作品のあり方は、美術という領域や当たり前とされる概念を穏やかに揺るがすだろう。

ニュートロンでは4年半ぶりとなる待望の個展にご期待下さい。



Photo : Tomas Svab


comment
gallery neutron 代表 石橋圭吾

 私達はほとんどの場合、視覚を頼りに生きている。朝起きてから夜寝るまでの間、もし突然視界を塞がれてしまったら、おそらく私達は何もできないまま狼狽し、この世界における認識を失い、自分の姿さえも手探りでしか辿れず、つい先ほどまで生きていた世界から断絶させられた感覚を得る事だろう。それほどまでに頼りにされるからこそ、私達の目は必然的に過剰なほどの情報、映像を見させられる事となり、更には視覚情報同士による競争の結果の強烈なビジュアルメッセージに晒され、今やすっかり受動的な器官に成り下がってしまったのではないかと危惧してしまうのは、私だけだろうか?

 西山裕希子はあたかも視覚を失ったかのように、私達の住むこの世界における自分というものの存在する領域、意識の及ぶ領域を手探りで確かめようと試み続けている。しかし彼女は目が見えない訳ではなく、ちゃんと見えている。そして視覚芸術という形態を取ることによってあえて、視覚から得られる情報や刺激(つまりは電気信号)が及ぼす脳内の考察を期待し、作品を生み出している。その過程の中で最も注目されるのが「ろうけつ染め」という染色技法であるが(これについては作家自身のステートメントに詳しい)、作家としては「染織作家」と呼ばれたりすることには常に違和感を覚えてきた。なぜなら他に布を支持体としない形態の作品があるばかりか、インクジェットによるプリント、時に映像を上映するなどの手法も取り、最終的には必ず展示空間における作品の置かれ方や距離感なども、重要な意味を持たされているからである。それは従来の「平面」「インスタレーション」「染織」「版画」などの要素を持ち合わせながらも、そのどれにも属すことのないユニークでオリジナルな分野に存在していることの現れであり、それは先に線引きを除けて辿り着いた地点ではなく、作家が自身の存在する領域を探る道筋の中で到達した、極めて曖昧で名前のつけようの無い場所であると言えよう。

 西山が得意とする平面作品のスタイルの一つとして、女性が細い線で描かれる人物像が挙げられる。それは先に紹介した「ろうけつ染め」によるものなのだが、線が見える以外の領域は色が付けられることもなく真っ白な布地のままか、最近では背景として寓意的パターンがプリントされているのみである。女性と思われる人物はあくまで輪郭線のみで描かれているので、その表情や人格などは読み取れない。何かの仕草を認めることは出来ても、それに感情移入をすることは難しく、そもそも描かれた人物とどう対峙すべきかも悩ましい。何故ならそれはあまりにも唐突で、手がかりのない曖昧な像であり、ただ確かなのは染めによって描かれた線の存在だけなのである。つまりは「輪郭」があっても中身を伴う実体はそこには存在せず、そこに何が足されれば実体として成り立つのか、逆に考えさせられもする。西山はおそらく、線を引く事から始めるしか、この世界と心理的に対峙する術を得なかったのだろう。 鏡に予め刷られた像は、鏡に映る私達に比べてどちらが現実に近いと言えるのだろう。あるいは鏡という地点において、本来そこは何が存在する領域であるのだろう。版画的手法で着色された背景としての領域と、ろうけつ染めによる線描の領域とは、どれほど離れた地点にあるのだろう。あるいは私達鑑賞者はいったい、何を頼りに立ち、何を見ようとすれば良いと言うのだろう。

 視覚芸術でありながら視覚の頼りなさを突きつけられもする西山の作品世界には、心理的不安や欠乏、一方では安息も付随する。思えば私達が普段見ている(見せられている)像のほとんどは実体を確かめる前にその存在を疑わず、私達は自分が立っている地点を探る前に答えとされる情報を得てはいないだろうか。それは即ち、私達自身を知ろうとする前に答を用意され、一方で他者が何者かを認識する前に知った気になってはいないかという問題でもある。私と他者の明確な境界など果たしてどこにあると言うのだろう。私と言う体の輪郭の内側には、私と言う心理的領域が隅々まで存在すると言い切れるだろうか?あるいは私の体の外側には、私の意識が存在する余地はないのだろうか。

 作品はまるで「あなたの意識と私の意識が交わる地点はどこですか?」と問いかけている様だ。