neutron Gallery - 入谷 葉子 展 - 『 縁側ララバイ 』
2010/8/31 Tue - 9/12 Sun gallery neutron kyoto (最終日21:00迄)
ニュートロンアーティスト登録作家 入谷 葉子 (平面)

色鉛筆で埋め尽くされる空間は、かつて作家自身が育った懐かしい「お山の家」。
しかし描かれる時間軸は過去から現在の中でいくつもの地点を混在させ、記録と記憶を基に再現される。
版画の技法を通過して生まれる新たな塗り絵表現は、世代を超えて共有する場を普遍的に炙り出し、ノスタルジックかつ先鋭的な試みとして注目と共感を集め続ける!


 
「ノスタルジック チャプチャプ」 
2010年 / 295×286mm / color pencil


comment
gallery neutron 代表 石橋圭吾

 まるでサザエさんの家のようでした、とは入谷葉子自身の言葉である。作家が思い入れをもって描く「お山の家」は、大阪府箕面市に位置する入谷家のかつての居宅のことであるが、今現在は人手に渡っているので家族揃って別の所に住んでいる。そんなプライベートな事情は普通なら公にせずにおくところだが、入谷の制作の発端が超・プライベートな空間=「家」である以上、作家自身の情報については多少なりとも披露しておかねばなるまい。そう、言うまでもなく入谷が大画面に色鉛筆でぐいぐいと描く古き良き昭和の香りのする「家」は、まさに彼女自身の記憶と写真などによる記録に基づいて再現されたものである。そしてそれは作家自身の思い入れだけでなく、多くの日本人(あるいは、もしかして世界中の人々)にとって懐かしさや気恥ずかしさ、あるいはもはや未知の郷愁の対象ともなり得る光景として提示されるのであり、超個人的な空間をパブリックスペースとして開示する姿勢に、アイデアの秀逸さと大胆さを感じてやまない。

 入谷葉子という作家の代名詞となりつつある「色鉛筆」だが、もともとは版画を専攻しつつ併行して用いてきたツールである。代表的なシリーズに空港を描いたものや猿山をはじめとする動物(園)の光景、スキー場のリフトや山岳地帯に住むマーコール(野生ヤギ)を描いたものなど、ユニークなモチーフとロケーションが多い。それらはシルクスクリーンによるフラットな塗りと、対照的に手で引かれた細かな線描(しかもサイケデリックなパターン)で埋め尽くされた空間の対比は印象的で、版画作品としても・あるいはグラフィックデザインとしても秀逸なものであった。- しかしその後、入谷にとって転機が訪れる。世の中の趨勢により版画の環境を次第に求めにくくなった昨今、もはやシルクスクリーンという技法に頼ることを諦めざるを得なかったとき、入谷は勇気をもってその表現の先を色鉛筆に託し、やがてモチーフも自分が執着する「家」に辿りつくことにより、現在の作品が生まれることとなる。それは偶然と必然が重なったことによる運命的な出来事と言っても差し支えないだろう。実は猿山は猿にとっての住処、山岳はマーコールにとってのホームグラウンドであったのだが、動物というモチーフの影響力は強いため、そこから私達人間の住む環境へとイメージや思考がシフトすることはなかなか難しいことであっただけである。あるいは空港の搭乗口やスキー場のリフトには生き物こそ描かれていなくても、その場所で時を違えて何人もの人間が移動を繰り返し、結果として同じ空間を共有してきた特定の地点である。もちろんそこをただ通過しただけでなく、悲喜こもごもの感情や記憶にまつわる場所として、選ばれているに違いない。だがそれらは全て入谷にとっても私達にとっても、直接的な関係を持たずとも結びつくことのできる公の場(パブリック・スペース)であった。

 そして「お山の家」シリーズで見せられるのは、全くの私的空間(プライベート・スペース)であるのだが、なぜか入谷作品の中で最も鑑賞者に切実な印象を与えるのは、色鉛筆による徹底した描画のせいだけではないだろう。作家自身が身を呈してまで提示する「家」=時代を超えて異なる世代の家族が同じ空間を共有する場、という図式は見事にフラットな紙の上に表される。色鉛筆を使い続けて来たからこそ塗りの確かさや色使いの妙は安定しており、もはやそこに斬新さを求めずとも、私達がその光景を記憶の底から引き出すことによって、入谷家の玄関や縁側や風呂場は私達のそれともなり得る。みんながみんな、サザエさんのような家に住んだことがある訳ではなかろうが、ある意味ではサザエさんによって、あるいは他のテレビ番組や漫画や小説などによって構築された昭和の三世代住宅は、平成の世においても普遍的な力を有して存在感を高めているとも言えよう。そして入谷の色鉛筆は、もはやグラフィックデザインでもなければ奇をてらった技法でもない。ひたすらに縁側や裏庭を塗りつぶす行為を想像すると、その行為によってこそ記憶やイメージが炙り出されるのではないか、とつい思ったりもする。今で言う「スクラッチ」の流行る前には鉛筆でこする事によって「アタリ」と「ハズレ」、あるいはそれ以外のメッセージが浮かんで来たのを記憶しているが、案外入谷の塗りつぶしは塗り絵の枠を超えて、大きな画面に対峙する時にこそ見えて来る「何か」を探す試みなのかもしれない。縁側に座るおばあちゃん、裏庭の犬、畳に敷かれたカーペットの上に散らかる新聞紙とミカン…具体的な連想では追いつかないほど、年月と時代の変遷で「家」は移り変わる。同じような毎日も振り返れば全てが貴重な一瞬であったことを、人は失ってから知るものである。