neutron Gallery - 松井 沙都子 展 - 『Phantom hides on the wall』
2011/3/8 Tue - 27 Sun gallery neutron kyoto (最終日21:00迄)
松井 沙都子 (平面)

それはまるで古壁に染み付いた得体の知れない染みの様に、消そうとしても消せず、視線を離そうにもなぜか目を向けずにはいられない何かのように…。
絵画ともコラージュともつかぬ、いやどちらとも言える複雑な成り立ちで出現する不安定な造形は、限りなく平坦な次元に宿る異質な存在感として、鑑賞者の心に何かを残し続けるだろう。


 
「Phantom hides on the wall」
2011年 / S12号 / パネル、アクリル、象嵌、ステンシル


comment
gallery neutron 代表 石橋圭吾

 それはまるで古壁に染み付いた得体の知れない染みの様に、消そうとしても消せず、視線を離そうにもなぜか目を向けずにはいられない何かのように。松井沙都子の作り出すイメージは、平面作品という形態を取ってはいるが、その実は絵画ともコラージュともつかぬ、いやどちらとも言える複雑な成り立ちで出現する。壁の染みと違うのは確かに作家の意図によって限られた時間で生み出された像である点だが、しかしペッタリとした面に張り付いた「それ」には、なぜか途方もない奥行きが宿っているように感じてやまない点において、両者は相似する。まさに今回の展覧会タイトル「Phantomhides on the wall」(作家によれば「お化けが壁に隠れている」または、「壁にかかった幻の毛皮」の意味)に込められた質感は、限りなく平坦な次元に宿る異質な存在感とでも言おうか…。それは言葉にはしにくいモノであるからこそ、こうして松井がどこまでも追い求めようとするのであろう。

 2009年の京都個展「a ghost」(お化け)、続く2010年の東京個展「a mimic」(ものまね / 偽物)と、松井の提示するタイトルと作品は常に密接に関わり合いながら、近い距離を経て変遷している。今回の「Phantom」もあえて「お化け」とするならば、この言葉が最も端的に作家の意図を表しているのかも知れない。だがここで言う「お化け」は、怪談・奇譚に登場する具体的なキャラクターとしての像を彷彿とさせるものではなく、どこまでも曖昧でつかみ所のない存在であることを、言い添えておく必要があるだろう。「a ghost」から「a mimic」に続く近年の制作の流れにおいては、モチーフとして人体や衣服をバラバラに切断して、またそれらを不可実な存在として再構築するような造形を見せており、本来の事物の表裏を裏返したり・繋げたりすることによって既視感から違和感へと見る者を誘う手法は秀逸であった。画面に施されるグラフィックパターンのような装飾もまた、見る者の想像を途中で遮るかのような効果を発揮し、あくまでも平坦な画面上の出来事であることを強調する。いわゆる絵画の「奥行き」というイリュージョンを働かすのではなく、のっぺりとした画面に浮遊するイメージそのものの質感を限りなく二次元に留めながら、しかし本質的に作家の意図するものは彫刻的な考察であることも感じさせる。そう、松井沙都子の制作はどこまでも物質から離れたイメージ、あるいはパーツによる二次元上の組み立て作業であり、そもそも何に結実するかを意図せず、常に鑑賞者へ想起を促すことで成立するものである。

 最新作ではバラバラだったモチーフは具体的な像を保持し、比較的安易にそれと判別出来るものとして提示される。それらは自ら描いたものを一旦パソコンに取り込んでグラフィック処理された上で、再びアナログの次元に戻り作品画面に配置される。その像が何であれ、描かれたものがデジタルデータに変換された時点で異次元の存在に成り、再び出力されたものはもはや何者なのか定義しにくい。松井が今ここで「Phantom」と呼ぶのは、まさにこの変換と再生の上に生まれた存在のことである。時代の必然とも言えるデジタル変換を逆手に取り、物質としての存在が0と1の集積に化け、それを再び物質としてこの世に呼び起こす作業によって何が生まれるのか、を試している行為と言えよう。無論ここにはクローンや再生医療と言った現代的諸問題をなぞらえて見ることも出来るであろうし、あくまでグラフィックとしての、技術論的な問題だけで片付けることも出来よう。どちらにしても、簡単に呑み込んで消化しきれない違和感や異物感が鑑賞者に残る。それこそが松井沙都子の作品の後味であり、一見すると甘く、しかし食べてみればほろ苦く、喉に何かが引っかかる様な質感の現れである。松井作品の鑑賞者たる人間が物質的にも精神的にも「不完全な」人間という存在である以上、対峙する像もまた不安定・不定形であり続ける。生み出される作品が絶対的な電気信号の集積としてではない、物質としてのものだからこそ、松井の問いかけは見過ごせない存在として残るのだ。