neutron Gallery - micca 展 『less』- 
2003/10/9/23Tue - 28Sun 京都新京極 neutron B1 gallery

村上龍『ダメな女』の装丁をはじめ、書籍、ファッション、音楽などの各分野で注目を浴びるmiccaが地元・京都で初の個展。イラストレーションの枠を超え、モチーフとなる女性を通して「空気」や「匂い」、そして「温度」を感じさせる独自の世界。ニュートロンのオープン時から圧倒的な支持を集め、最も登場が待たれた作家の待望の展示。土曜日には自信がジャケットを手掛けた『高鈴』のライブも予定。女の子ならずとも必見です。

  

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gallery neutron 代表 石橋圭吾

  「時代の顔」と言うのがある。古くは神話や伝承をモチーフにした記号的な古代の壁画、濃厚な色香を漂わせる江戸時代の浮世絵、竹久夢二に代表される「うつくしき」大正ロマンの挿絵。そして昭和に入ってからは劇的なスピードで展開されるファッションと文化の融合によってもたらされたイラストレーション達。その中でも、広告宣伝分野における日本ならではの戦略が成熟してきた80年代あたり(ポップでカラフルな色調とウーマンリブの台頭で女性の時代を決定付けた)から、一時代の「時代」としての期間は加速度的に短くなってきている。我々がイメージできるのはその作者・筆者の名前よりもぼんやりとした「あの時代」の雰囲気としての「顔」であり、化粧であり、ファッションである。それは情報の伝達という目的、宣伝であるという主旨よりも深く、印象として刷り込まれているからだ。さしずめ、今現在における「顔」はまさしくカンバラクニエや、「チャッピー」に代表されるフラットなCGキャラクター達なのかもしれない。
  しかし、もう既に随分と以前から、「時代」をひとつの定義に当てはめることなど不可能である。消費志向も、個人の嗜好も、それぞれ細分化の一途をたどり、言わば「オタクマーケット」はあらゆる分野に波及し、ファッションの(特に女性の)世界においても「この時代」の「このファッション」は一概には決定できない状況にある。前述のカンバラは確かに誰しもが知る「顔」なのであろうが、一方でmicca(岡田美香)の絵もまた、時代の「顔」としてゆっくりと、確実に浸透しつつある。両者における決定的な違いは、前者のつるんとした無機質でデジタルな質感に対し、後者は肉筆ならではのゆがみ、風合い、手触りなどのアナログな質感が特徴であると言える。そして、もうひとつ、カンバラの作品は「消費」を前提に存在するのに対し、岡田のそれは「消費」以前に存在することである。
  しかしながら「micca」の「仕事」はもう既に随所にて見ることができる。村上龍の「ダメな女」(光文社)から始まり、主に本の装丁・挿絵、あるいは服飾における活躍が目立つ。一貫して、ぼんやりとした佇まいの女性が「さらり」と描かれる。「さらり」と言ったが、決して軽く無い。むしろ若干の「痛み」や「重苦しさ(息苦しさ)」を感じさせ、どこか挑発的でもある。「痛み」や「汚さ」は90年代から写真や音楽、ファッションの分野において顕著に見られ出した傾向であはあるが(この頃からモデルは笑わなくなり、ピントは外され、重たい空気とアンニュイな画面があちこちで見かけられるようになった)、ここ数年はようやくその重たい空気からの脱却のムードが世界的に感じられる。そのような時代背景に、岡田もある程度無意識に影響は受けたとしても自然なことであるとしても、彼女の作品にはもっと深い部分からのアプローチがあり、時代背景においてひとくくりにするのは間違っていると言える。大学の卒業制作の油彩作品を見てもわかるように、彼女の描きたいものは「イラスト」では無く女性というモチーフを通しての「空気」「匂い」「温度」である。結果としてイラストレーションに活動の域を見い出したのはプロフェッショナルとしての可能性を一番に感じたからではないだろうか。卓越した画面構成、効果的な配色、何よりはかなげで不安定な「線」が我々の心の琴線に触れ、その柔らかでチクリとした視線にドキリとする。決して男性がイメージするステレオタイプ的な「美人」画ではないが(女性が描く女性は、おそらく10年以上前からこのステレオタイプから脱却している)、刺激的でかわいらしい。いつの時代でもナイーブで傷付き易い「おんなのこ」は不変である。miccaの作品もまた、そうあって欲しい。