「ラジカセ」を用いた一人芝居で独自の境地を切り開く田中遊がニュートロンの 地下スペースでの企画に挑む。「自分という一人の人間の持つ記憶と想像力を引き出 す装置」をテーマに、昼間は5名の作家の作品を展示(インスタレーション)、週末 の夜は芝居を行う。ぜひ展示と芝居の両方を見て、感じて下さい。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
この企画は、田中遊との出会い、そしてそのひとり芝居を見た経緯から生まれたものである。芝居と作品展示の両方の見せ所を持つ企画では有るが、それぞれを成立させるべく、時間は分けて行われる。つまり、「展示を見ながらお芝居も」という欲張りな時間を設けようとするものではなく、「芝居」と「展示」は独立する。もちろん、展示作品は芝居中もその空間に存在するし何らかの影響を与えるものではあるが、芝居時においては役者である田中遊に視線を向けるべきである。(フジイタケシの作品展示の空間で芝居が行われるため、彼の作品のみ、舞台セットとしての役割も果たす)
この企画は、まず「芝居」ありきである。しかしそれは、展示作品が芝居の添え物として扱われたり、展示時間は余興だと言うのではない。全てのアイデアがまず、田中遊の芝居から発生しているからである。彼は劇団員としても優秀な才能ではあるが、一方で「一人芝居」においてその脚色、編集、そして演技力を如何なく発揮する。芝居と言う興行におけるほぼ全ての作業を一人でコントロールし、質の高い作品を発表することは、マルチなだけでなく完璧な計算と用意が要求されるが、彼はその厳しい条件をクリアできる人間のようだ。その彼が最近の一人芝居で、「ラジカセ」を用いての表現に挑戦している。複数の(私が見た時は大小5台程度)ラジカセ及びそこに入るカセットテープ(彼が様々な声色を使って録音した声であり「台詞」が収録されている)を駆使して、舞台上に(舞台セットと呼べるものも無く)唯ひとり存在している田中自身が、その声達と会話し、絡んでいく。ストーリーは取り留めのない会話が急展開を見せて、子供の頃の時代設定になったり、未来の自分と交信したり、縦の時間軸を前後しつつ進んでいく。時にユーモラスに、時にメランコリックに、そして絶望的なまでに孤独に、展開する。「孤独」は顔も素性も分からぬ第三者達の声に囲まれた時に迫ってくる。「みんな」が通り過ぎ、会話の単語やフレーズが流れては消える。自分には全く関係の無い言葉たちが、一方でどこか引っ掛かる。しかし携帯電話の話声は一方の声しか聞こえず、会話の全体像は掴めない。ありふれた日常に溢れる「ことば」と、それによって生まれる想像や思い出す記憶は一人一人違う。しかし、人間と言う生き物には必ず人生があり、同時代に生きる我々には共通の「何か」が存在する。そして誰もが皆「血」の繋がりを持っている。縦の時間軸を持っている。それを遡ったり、未来に思いを馳せたり出来るのである。
視覚的なものを極度に制限してこそ面白みが増す田中の一人芝居に、今回はあえて「展示作品」というビジュアルが用意される。しかしながら、先に述べたように芝居の最中に目に入るのはフジイタケシのパイプの壁面作品だけである。これは意図的に舞台スペースに配置され、無機質ながら安息感を感じられるフジイ独特の表現をそのまま芝居の雰囲気に反映させるためのものである。フジイと他の4名の作家の展示作品は、まさしく「展示」時間中にその意味を発する。役者は居らず、作品と、それに向かい合う観客が居るのみ。しかし、ここでもまた田中の用いる「ラジカセ」が登場する。芝居中とは違い、ランダムに配置されたラジカセからは誰ともない話声が聞こえる。それは決してストーリーでは無く、雑踏の「音」のように通り過ぎ、あるいは引っ掛かり、また消えて行き、聴こえてくる。意味を見い出すかは、その時の観客次第であり、偶然と必然の危ういバランスのもとに効果を与える。もちろん、ひとつひとつの展示作品はこの企画のテーマのもとに集められたものであり、それぞれが影響を与える。では、今さらながら、テーマとは何か。それは、「自分という一人の人間の持つ記憶と想像力を引き出す装置」である。ラジカセからの声により役者は過去と未来を動き、観客はそこに付いて行く。一方で展示中は、観客がその主人公となり、個々の作品と向かい合うことによって何かしらのインスピレーションを受け(あるいは素通りし)、同じくラジカセの声によって誘発される。5名の作家の作り出す作品も、イメージさせる内容もそれぞれ異なるが、共通するのはその装置的役割である。作家はその作品に自分なりの「思い」や「記憶」を込め、それを見る観客がそれによって自分達なりの「思い」や「記憶」をイメージすることができる、そんな作品を選んだつもりである。あえて解釈するなら、三瀬は子供の頃の想い出を元におとぎ話のような小人の世界を表現し、北平は自分の体験したエピソードや邂逅した人物の印象を元に版画を刷る。滝は路上での似顔絵(出会いの記憶)をコラージュしていくことにより一枚の作品に昇華する。ヤマガミは現代的なアプローチで都市の印象を平面に残そうとする。そしてフジイは自らが孤独と安息を感じる風景を空間的に作り上げる。それぞれが皆、一人としての体験や思いを元にしながら、他者にも共感を呼び起こすことのできるアプローチである。
我々はみな違う人間である。違う過去と未来を持つ。しかし、どこかで誰かと繋がり、出会う可能性を秘めているとも言える。他人の出来事は、次の日には自分に起こるかもしれない。さっきすれ違った人物は、遠い親戚かも知れないし、未来の友人かも知れない。「私」と「みんな」は違うが、同じかもしれない。だからこそ理解しあえる。自分も、自分の親も、自分の子も、自分の中に存在している。「わからない」事なんて、本当に有るだろうか?
この企画のテーマを存分に楽しんで頂くためにも、ぜひ展示と芝居の両方をご覧になって頂きたい。