フジイがインスタレーションに挑戦する。従来の「秘密基地」の コンセプトをさらに発展させ、そこに銃をモチーフとした立体を存在させることによ り、制約された視界、緊張感、焦点を合わせる行為を成立させる。参加型の展示をお 楽しみ下さい。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
昨年の個展以来、インスタレーションとしての制作・発表を強く進めているフジイであるが、その表現のルーツは一貫して「独り」の空間における安息感にあった。大学で洋画を学んだ彼であるが、その頃から塩化ビニールを用いた「パイプ」を組み合わせた平面(半立体的なもの)を作り、本来無機質な「もの」がまるでガウディの魔力を思い出したかのように、不思議な生命力と懐かしさをもって我々の前に存在する。彼が述べているように、孤独で無機質な空間にこそ安息感と、インスピレーションの源となる自分だけの時間が流れるという発想(記憶と言い換えてもいいかもしれない)は、例えば子供の頃にしたかくれんぼの時に、狭くて暗い空間に身を潜め、何やら言い知れない緊張感と孤独感と、自分だけの空気が流れるその密度が快適に思えた瞬間を思い出させる。
昨年行った、ニュートロンの地下ギャラリーにおける個展で、彼は二つの事に挑戦した。ひとつは、「平面」的なものでなく、完全に「インスタレーション」としての発表を企画したこと。もうひとつは(その具体的なテーマとして)、スライドプロジェクションによる視覚効果と、椅子に座るという能動的な行為による体感との組み合わせで、観客にイメージを感じさせようとしたことである。シンプルな展示であったが、その要素は意外と多岐にわたり、彼が全てをなし得たかと言うとそれは自他共に認められない。それぞれの作り込みや「効果」が、どれほど追究されていけるか、がまさしく「相乗効果」としてのインスタレーションという表現には重くかかっているからだ。だが、パイプを用いての不思議な空間設計と、暗い室内の舞台セットに観客を誘導し座らせるという試みは好評を呼び、その意義は充分に感じられた。その後、今年の7月の個展(ギャラリーすずき/京都)では、線路の枕木と鉄という、かなり無骨な素材を用いて、一方で平面作品を組み合わせ、明るいギャラリーに「空き地」的空間を現出し、その積み重ねた巨大な立体(枕木と鉄)の隙間からもれる光を鑑賞するという、やはり「座って」楽しむインスタレーションであった。ここでも課題は残る。やはり明るい空間において、その視角に入る作品以外のもの(建物の造作や床)、あるいは彼が用いる皮張りの椅子そのものが、馴染んでいるとは言えず、彼が我々に提示しようとするイメージを理解はできても、説明無しに体感できたかと言うと、いささか疑問が残る。「インスタレーション」に取り組む作家なら誰しもがぶつかる壁なのであろうが、これは作家が自分で乗り越えていかなければいけない壁でもあろう。
その多岐にわたる問題を今度の個展で一気に飛び越え・・・とはなかなかいかないだろうが、彼の試みは一歩一歩前進する。基本的なスタイルは変わらないが、例の「椅子」は登場せず、どうやら我々は屈んで、あるいは腹這いに?ならなくてはいけないらしい。そしてスコープを覗いて照準を合わせると言う。このような経験はおそらくモデルガンマニアでなければ有り得ないだろう。従来のフジイの提示する「安息感」から、ある種の「緊張感」を感じさせる内容になる。果たして誰しもがこの展示に「参加」するかは置いておき、能動的なインスタレーションは引き続く。何をもって彼の「作品」と呼ぶか、これも難しいところではあるがまずは彼の誘導する通りに目線を下げて、その景色に集中してみることだ。言わば「制約」ともとれるこの一連の動作とその限られた視角と情報が、案外、我々の日常で機会の減った「かくれんぼ」的な風景と印象を思い出させ、その行為によって個々の記憶を蘇らせるかも知れない。例え彼が描いた「空間」が眼前にどのように広がろうとも・・・。