1974年 京都市生まれ
現在、東京在住。フリーカメラマン。
撮らずにはいられなかった、写真達。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
写真は難しい。私自身が写真を撮っていたときは、そうは思わなかった。しかし今はそう思う。あらゆるアートの輪の中に於いて、もう語りつくされ、やり尽くされてしまったような感さえあり、なお圧倒的な支持を誇る「写真」という表現。現代のアートの中でも一部、写真を使った、あるいは写真を介した表現も見受けられ、それはそれで新しい試みもされているのだが、それはむしろ「素材」や「文脈」的な捉え方で各々の表現の幅を広げる役割を果たし、元来の「写真」としての表現とは趣を変える。そもそも写真はそのプリントで立体を組み立てたり、燃やしたり、上から絵を描いたりするために在るのでは無い。「では無い」からこそそれをタブーを撃ち破るために試みたり、あるいは素材やイメージとしての外見を与えるために使用されている、のだと思う。つまり、あえて「写真」の古臭い伝統にのっとって言うならば、「写す」行為あるいは「映った」現象に対する追究こそが写真表現の神髄だとした場合、果たして「今」の写真表現とは、どういったものなのだろう?と常々考える。写真人口の相変わらずの多さの割に、あまりにも凡庸で、使い捨てで、カビの生えそうなものばかり目にする事が多い。一写真家としてでは無く、ギャラリーを運営する人間として、切実な問題なのである。もちろん、今までにも写真展の企画は有り、各々の「目線」と「こだわり」を見せてはくれている。技術的にも表現としても安定の域に入ったベテランの表現も素晴らしい。だが私が見たいのは、実は「今」の若者が街を徘徊して獲物を求めるように撮る、「ギラギラした」写真なのである。それは「艶っぽい」とか「熱い」という表されかたでは無く、稚拙だが一途であり、打算と欲望とジレンマと無常感と希望の混じりあった、「青臭い」写真でもいい。恐ろしいほどパーソナルでありながら、世界の視点を一瞬にして集めてしまうような狡猾な写真でもいい。どんなにやり尽くされていようが、そんな事を知りもせず、己の欲求と感性に正直であり続ければ、そこには何かが写るはずである。
廣瀬もまだ写真を始めてから大したキャリア等無い。思い付いてカメラを手にし、東京で暮らし、仕事をし、たまに京都に帰って来る。どこにでも居そうなカメラマン(あるいは写真家)志望であるが、その可能性は広がっている。彼女のポートフォリオには白黒、カラーそれぞれがテーマ別に収録され、それぞれのテーマは一時的なものでなく、彼女の日常における写真表現の幅として存在する。決してコンセプト有りきでは無く、自然とある種のテーマ性が見せてくると言った方が良い。したがって、私が現時点において全ての写真が良いと思っているわけでは無く、今回企画した「JAPAN」シリーズこそ、私が見たかった(見せたかった)写真郡である。参考までに他のシリーズにも触れておくと、「today」はスナップ的感覚で被写体に真正面から向き合い、その温もりや人間味をそのままに伝え、カラーも柔らかい。白黒作品においてはむしろファッション性を感じさせる。これは仕事の影響かもしれない。だがそれはそれで筋の良さを感じさせ、ドラッグクイーンを被写体とした「パーティー 2000」(近作)ではただならぬ色気や匂いを伝えるに充分の写真を撮っている。そして「JAPAN」である。他と違い、6X6の四角い画面に写るのは夜の繁華街の生々しい風景、掃いて捨てるほど見飽きた「日本的」風景、その辺に居る当たり前の人々、ホームレス、ゴミ、外国人。新宿に限らず、どこか日本全体に蔓延する当たり前の風景。さして格好よくも無く、かといって事件が起きるほどの問題も無い。いや、まだ起きていないだけか。いい人そうだ。いや、やっぱり恐いかも。そんなことも考える間も無く、廣瀬は声をかけているのだろうか。あまりにあっけなく、当然に、立ち現れる日本の風景。猥雑だが不思議と明るい写真に、希望が有る。