ニュートロンの設計・デザインを手掛け、立体造形作家としても羽ばたこうとしている佐原が待望の登場。一昨年の5階での展示以来、2度目の展示は地下ギャラリー での企画展。自らデザインした空間における現在進行形の作品提示!
gallery neutron 代表 石橋圭吾
佐原誠は、実はニュートロンを私と共に作り上げてきた(現在進行形で)人物であると言っても過言では無い。2001年の春、ニュートロンという新しいコンセプトのギャラリーを作ろうと奔走する私に知人が彼を紹介してくれた。当時彼は立体造形作家としての活動は盛んだったものの、店鋪コーディネートに関しては駆け出しであり、建築事務所に詰めては喧々諤々の議論を重ね、限られた予算と時間の中で現在の5階のフロアを設計したのはまだ記憶に新しい。その後たった1年で地下のフロアをオープンさせた時も、やはり彼の力無しでは不可能であったと言えよう。年も近く、バイタリティーに溢れ創造性と実用性を模索するスタンスは私にとって必要不可欠な要素であり、彼は見事にそれをコーディネートした。
銀座T-BOXでの毎年の個展やNYをはじめ海外での近年の活躍(作家として、あるいは内装等のデザイナーとして)を見れば殊更に不思議なのは、地元京都においていわゆる現代美術としての取扱われ方が極めて希薄なことである。彼は仕事も生活も京都に拠点を置いている。にもかかわらず、東京や各地での活動が目立つのは、京都のギャラリーを避けているようにも見える(これに関しては彼の口からも少なからず同意を示す言葉があった)。作家としての活動ではともかく、プロデュースや指導的な仕事では生計を立てるに至る現状は彼にとって満足ではないにしろバランスは取れているのであろう。しかしながら私は彼を一作家として、ここ京都から今一度紹介したい。彼の作品はもっと知られて良い。そしてそれをやるべきは、ニュートロンであるとの自負を強く持っている。
作家として作品制作を意識しだしてから10年を経ようとしているそうだが、その作品は根本的に揺るぎなく、しかしディテールや印象は少しづつ変化を見せている。初期の作品群はミイラ的なものであったり、「デスマスク」や「棺桶」を連想させるものであったり、自身の「皮膚感覚」と「生死観」を強く感じさせるハードな印象を与えるものが多かった。彼自身、音楽ではハードコアパンクが好きだそうだ。華美で無く、骨太で削ぎ落とされた迫力のようなものは両者に共通するかもしれない。その印象が少しづつ柔らかく感じられるようになってきたのは、2000年を過ぎたあたりからか。皮革という素材の柔らかみと、シンプルな造形が徐々に目立つようになり、暗い倉庫のような空間よりも日の光の入る明るい部屋が似合いそうな作品群が出て来た。この変化あるいは進化は現在も続いている。最近では雑貨のような小品やイス、「CENTER EAST」とのコラボレーションjでは実際に着られる服(のようなもの)まで作って見せた。
作品は作家にとって自身の分身でもあり、自己を投影する鏡でもある。彼の作品の変化はイコール彼自身の変化である。自己とストイックに向き合い、他者を寄せつけない甲羅のような初期のものは彼自身の社会に対する「殻」を連想させ、徐々にその殻が柔らかくなり、機能的になり、空間における印象的な位置を取るようになる。「俺の部屋」における「俺の存在」から、「他者の空間」における「自分と他者との接点」を模索するようになる。「自己のアイデンティティー」から発した表現はやがて、「誰かが使う事を意図したもの」にまで意識がめぐる。彼の作品は(あるいは彼は)そうやってこの10年を経過してきた。もちろん、それには仕事としての各分野での活動が極めて重大な影響を与えていることは見逃せない。作家としてのエゴと仕事におけるバランス感覚は両立させるのは難しいが、彼はそれを楽しめるようになった。既に佐原誠は注目に値する。私が今回企画するのは作家としての展示だが、その空間、あるいはそのディテールに見せるのは、他ならぬ佐原誠の仕事である。