毛むくじゃらのバーチャルペット、「もじゃこう」から派生した「もじゃコード」 が大量発生!絡み合い、群棲する様はかわいくてちょっと無気味?
gallery neutron 代表 石橋圭吾
一見、何の変哲もないように感じられるかわいい象の絵と毛玉のようなオブジェ。しかし良く見ると、何処か悲し気で今にも消えて失くなりそうな、はかなげな存在感が漂う。平面でも立体でも、ヒロキトンボの作品にはなぜか消失感がある。それらは作品のタイトルを見ると、如実に物語られている。「Empty older generation」「遠い街のユートピア」など、絶望すら漂わせるイメージ。モチーフのかわいさの影には、(言いふるされた表現だが)この世の中の閉塞感や孤独感、ヴァーチャルな世界に癒しを求める風潮への肯定か否定か、あるいはその両方のメッセージが強烈に存在する。
「ファンシー」なる言葉がアートの世界において注目を浴びつつ有る。日本人の得意とし、大好きな「ファンシーグッズ」なる得体の知れない存在と似て、表現においても、役に立たない過剰なまでの装飾やデコレーションによって、グロテスクなまでに肥大された人間の欲望や消費行動に対する悲哀、あるいは無用のものにおける価値観などが顕わされる傾向が近年多く見られる。ヒロキの「もじゃこう」はそんな「ファンシー」なるもの達と同系列に並べることもできなくは無い。今や「アイボ」はとっくに市民権を得て、ヴァーチャルペットは映画の世界だけでなく実際に存在する。そしてそれらは、皮肉にも人間の勝手な欲求によってマーケット化され、売買され、捨てられる実物のペット達と、全く同じ運命をたどることも決定している。「もじゃこう」もまた然り。ヒロキはこのかわいらしいオブジェに愛情も冷酷も表させようと試みる。そこから浮かび上がるのは、むしろ我々人間の身勝手な感情と欲求の対象としての「もの」である。
今回の個展では、ヒロキは「もじゃコード」によるインスタレーションを展開する。かわいさと同居する不気味さ。確かに、大量発生して絡まりあうそれらは気味が悪いかもしれない。しかしながら、本当に気味が悪いのは、「かわいい」で済ませてしまう人間が抱える、自己完結してしまう愛情と欲求にすぎないのでは無いか。