neutron Gallery - SHINJI OKADA 展 『Alive』 - 
2004/4/27Tue - 2Sun 京都新京極 neutron B1 gallery

そのペン先から溢れ出るのは情熱と、彼の血液と、そして真実のフォルム。ファッ ションの分野から現代アートまで、あらゆる方面にその才能を発揮するペンの魔術師。 単なる「グラフィック」で片付けられないその作品世界はミクロの緻密さと大宇宙の 広がりが同居する。感情とイメージの幸福な邂逅。





comment
gallery neutron 代表 石橋圭吾

  ごく稀に、唐突に、何の前触れもなく訪れる邂逅が有る。それは作品とその作り手、一体となっての感じ方とでも言おうか、どちらを先に目にしようとも、結局、その作家と作品世界が見事に一致して、私を興奮させる。そんな幸せな瞬間が、年に何回か、ふいに訪れる。
  SHINJI OKADAとの出会いはまさにそんな感じだった。それは私が求めていたものでもあった。迷いの無い視線と動じない姿勢。作品について雄弁に語ることも無く、かといって無口な訳でも無い。シンプルに、流麗に、プライドをもって存在する作家と作品。彼は若くしてもう完成の域に近いのかも知れない。彼が作品のディテールについて自ら語ることをあまり好まないのを受け、私もそれについては深く説明する必要を感じない。おそらく展示される作品と初めて対面する時、その全貌を目の当たりにし、受けるであろう衝撃をとっておきたいがため、一切それには触れたくない。であるから、この文章もあまり意味を持たないかも知れないが、どうか許して頂きたい。
  彼の作品世界は物凄く広い。バラエティーの話ではなく、私達が見る画面は無限に広がる世界の中のほんの一場面を見せられているに過ぎない。それが一つの作品としての平面に表れる。その一平面上に見えるものの中に、限り無く奥行きがあり、ディテールが有る。どこかに照準を定め、クローズアップしていくことによって、そこにはまた別の風景がたち表れる。逆に、目の前にある画面の前後左右には実はもっと隠された事象が存在し、仮にそれをパノラマ風に俯瞰することができるとしたら、実に巨大な宇宙が広がっていることであろう。もし画面という枠が無ければ、あるいは平面と言う概念がなかったら、一体どんなに素晴らしいことか。だが逆説的に言えば、きっとその制約があるからこそ、彼はその世界をほんのひとにぎり、現出させることが出来るのでは無いかとも思う。自ら「画家」だと称する理由は、案外それ故のものかもしれない。あまりにも無限な可能性と広がりを抱えていたとしても、人間としてそれを表現し、人間に認知させることは不可能である。彼はそのフォーマットとして平面を用い、私達に、物事の真実を簡単に見せてくれているのではないか。真実とは?「正しい」とか「良い・悪い」、ではなく物事のシンプルな状態。そのもの。有様。何の色づけもされていなく、ただ存在する骨格。ただし人間のスケールで認識する「大きさ」や「広さ」は本当に狭い範囲の出来事であり、ミクロからマクロ、その両極のそれまた先、発生から消滅まで、真実は必ずそこに存在する。だとすると彼が作品に付けるタイトルや、いくつかの作品に見られる具象的なアプローチは、一体何の意味を持つのだろうか?
  ここでもう一つの彼の特徴が感じられることになる。彼は、「人間」という生き物をその内と外、あるいは血液、内蔵からの視点で描いている。人間と言う存在は避けて通れない。なぜなら表現するのも人間なら、それを見るのも人間だからだ。彼はその視点をどこかに固定することはせず、ある時はモチーフとして人間の外部(に見える)を描き、ある時は細胞を見せさらに感情や皮膚感覚までをも事象として描いている。単なる「具象」と「抽象」の区別はここでは意味を為さない。描かれているものは、全て人間から発生し、真実を映し出し、宇宙的広がりを持つ。彼のつけるタイトル(言葉)は人間にとって理解しやすいヒント、あるいはスケールを与えるきっかけとして有効であるのだが、その言葉自体にとらわれるべきではない。例えば彼の描く絵本的シリーズもユニークであるのだが、果たして、もしその連作に文章が付いておらず、別のイメージを連想するとしたら・・・と考えると楽しい。彼の表現を若者のグラフィックとしてだけ認識するのは間違っている。彼のペン先から流れ、しみ込むインクは彼の血液であり、体液であり、真実である。