neutron Gallery - 山口義順 展 『LOOP_HOLE』 - 
2004/6/8Tue - 13Sun 京都新京極 neutron B1 gallery

戦争やスポーツ、あらゆるニュースを私達は映像に頼って生きている。その映像か ら言葉や色、動きを取り除き、説明すら無くした巨大な平面として向かい合う時、果 たしてそこから見えてくるものは・・・。プロジェクション投影を印画紙に焼きつけ る手法で注目の新鋭の初個展。





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gallery neutron 代表 石橋圭吾

 おそらく湾岸戦争や一連のオウム事件、そしてあろうことか阪神淡路大震災まで、90年代の日本および世界のニュースを通過して以来、もはやテレビ映像に完全なるリアリティーを求める者など居ないのではないかと思う程、その「演出」性は広く認識されたと思う。我々はそれらの映像を茶の間で、仕事場で目にした時、その衝撃を受け取る術さえも分らず、ただ食い入る様に画面を見、とりあえずはそこに未知の情報と真実が有ると信じていた。そこに演出が為され、実は現実にはもっと様々な事が行われていたことは、後に知ることになるのだが・・・。また、その頃から既に「バーチャル」の世界も同時進行的に存在し、さらにはインターネットの爆発的な普及もあって、私達の住む世界は一気に広がってしまったのである。山口を始めとする20代の作家は当然ながらそれらの恩恵あるいは影響を受けずにはいられない。だからこそ、表現の世界にも自然とメディアというものの存在意義や視覚の懐疑性、さらには情報の取捨選択といった項目は必須のごとく、注入されてくるのである。かくしてテレビを代表とする映像メディアはもはや受取手を選ばず怒濤のごとく情報を排出し、一方で私達はその量と形態のバリエーションに半ば辟易しながらも、やはり家に帰ったらテレビのスイッチを付けることを習慣のように行うのである。そして21世紀、おそらく映像史上最も衝撃的な出来事が映し出された「9.11」を経て、イラクに至るまで、さらに現在進行形で映像は私達を虜にし、世界の一部を見せ、同時に排除する。
  山口はもはや、そのメディアの功罪を断じたり論考を行うことすら通過し、最初から「疑わしいもの」として画面に向う。いや、おそらく今生きている人類は、もういい加減にそれに気づいている。だからこそ、そこはもう問題にもならないのであろうか。とにかく、山口が問題とするのはあくまで視覚表現としての画面であり、政治的・テクノロジカルな主張を行うものでは無い(今のところ)。彼は走査線の集合体としての映像からイメージを抽出するのだが、そのイメージにはこだわらない。なぜなら、彼が任意に選び、抽出し、拡大して定着させた画面にはもはや動きは無く、説明も無く、言葉も無く、モノトーンの陰影と、規則的に刻まれた走査線(あるいはピクセル)の跡が見えるだけで、「像」としての存在意義や象徴性は必要とされていないからである。彼が見せようとするのはもはや「像」「イメージ」と呼ばれるものの痕跡に過ぎず、それらは本来の名前や演出効果を奪われ、ただ「映っている」だけなのだ。私達はその痕跡と対峙し(しかも巨大な)、言うに言われぬ圧迫感を感じる。そこには不完全な情報としての不安感、対象を固定認識できない焦燥感も伴われる。例え演出過剰だろうが説明が過多だろうが、やはりそのおかげで私達は映像を安心して(予定調和的に)受け止め、「感動」や「衝撃」と言われるものを素直に受け入れることができるのかも知れない。例えば、全く予備知識無しに、面白いかどうかも分らない深夜映画を見る時、言い知れぬ不安感に襲われる。「最後まで見ようか?」「一体どんな展開なんだろうか?」など。それを楽しんでこそ、のはずなのだが、なかなかそうはいかない。人間とは結局のところ、「知らない」事象に関しては警戒し、無意識に情報を求めてしまうものなのだろう。山口の作業は作品を生み出す過程において、映像に纏わり付いた余分なものをはがし、その画像としての陰影・構図を掘り起こすことにより、私達に想像力と警戒心を呼び起こさせるものだと言えよう。彼は版画専攻でもあったのだが、そのような文脈から出てきた展開であるという点も面白い。
  個展は初めてだが、既に意欲的にグループ展などの発表を重ね、彼の作品の完成度は現時点でも高い。今年に入ってからの発表において、従来のグレイッシュな画面から、白と黒の陰影を強調する作風が現れたのも興味深い。今後も目が離せないだろう。