夏目漱石の小説「夢十夜」の「第一夜」をもとに絵画世界を展開 して個展を発表。今回はその続編として、「第ニ夜」をテーマに、単なる挿画ではな く文脈やことばを拾って独自の解釈・考察を加えた作品を制作。ことば本来の美しさ を引き出し、さらに奥行きのある世界を提示する。
重厚な絵画と軽やかなイラストレーションの融合するアニメーション的作風にも注 目!
gallery neutron 代表 石橋圭吾
福島菜菜にとって2度目の個展となる今回は、夏目漱石の小説『夢十夜』の中から「第一夜」を基にイメージした作品を発表した前回初個展に引き続き、「第二夜」を読んでの新たな新作発表となる。小説を基に、とは言ってもいわゆる挿画のような絵を勝手に描こうとするものではなく、一般に知られる夏目漱石の作品としてはかなりの短編の部類に入るこの小説の数少ない言葉(描写)を拾い出し、その言葉(あるいは文脈の一部)からイメージを増幅させることによって、一枚の絵画作品を立ち上げる行為である。簡単に言い換えれば、原作の世界観に拘束されることなく、「言葉」そのものからのイメージをオリジナルに再構築する試みと言える。資料として添付したのがその原文であるが、一読して分る様に(短いのでぜひご一読されたし)、基本的にこのストーリーは一人の男の夢の話であり、妄想である。であるから、突拍子もない設定もあれば淡々と過ぎるだけの時間も含まれる。それでいて、ストーリーとしての描写は極めて少ない言葉で済まされる。私達はその限られた言葉の裏や行間を読みながら、あっと言う間の話の中に奇想天外な経験を見い出すのである。福島はこの小説にこだわり、今のところ年に一度のペースで一話づつの作品世界を基に発表する、という形態をとっている。実に気の長い話だが、だとすればこの先8回(8年)の発表で完結するのであろうか。
漫画やテレビによって「活字離れ」が危惧された時代はもう昔のことで、今や携帯メールやインターネットにより「言葉の氾濫」が深刻な問題となっている。匿名による不特定多数を標的とした無責任な言葉の投げかけや誹謗中傷、中には好意的なものも含まれるとしても、実態が見えない恐ろしい言葉のやりとりが、今では日常的なものとしてまかり通る。必然的に私達が「言語」に接する機会は多いとは思うが、果たしてどれだけ「美しいことば」に触れているだろう?あるいは本当に価値ある小説や文献がどれだけ読まれていると言うのだろう?福島がここに見い出そうとするのは間違い無く「美しいことば」であり、そこから人間の想像力によって描かれる表現世界である。小説が古典だから、というだけでなく、日本語固有の美しさ、行間の素晴らしさ、あるいは少ない言葉によって表現される独特の「詫びさび」や「奥行き」を大事に扱い、その本質に入り込んで絵画を生み出す行為は、実にクラシックな発想とも思える。しかしながら福島の手法は大胆にも重厚な絵画と、軽やかでポップなイラストレーションの両極を混在させ、なおかつ印象的な一枚の作品に仕上げることに成功している。まるでアニメーションにおける背景とセル画の関係のように。画面の中にうねりや気の動きが生じ、時に想像上のキャラクター達は記号的な言語を発し、静止画とは思えない活き活きとした光景が広がる。もともと文学をはじめ幅広いカルチャーに刺激を受けて来た福島ならではの自在な発想が、見事に調和しているのである。また、短い小説の一節からこれだけの作品を紡ぎ出すことのできる類い稀な想像力も決して無視できない。一言一言の「ことば」に対する神経の細やかさは今の時代には不向きとも言えそうなくらい繊細なものだが、逆に言えば現代の犯罪やトラブル(特にメールやインターネットを介しての)はこれらの「ことば」の扱いから生じるものがほとんどである。どれだけ便利だろうと、どれだけ自由だろうと、責任や顔の無い「ことば」に魂は宿らない。そこに感動も無い。もし私達皆がもっと日本語(だけでなくそれぞれの言葉)を大切にし、表現としての責任感を負うことができるのなら、果たして世界はもっと良くなるのだろうか・・・。
最後に今回のタイトルについて。「それでも我慢してじっと坐る」の通り、原作の主人公はどこかで止めてもよさそうなのに、やはり我慢してただひたすらに坐って待っている。果たしてこれはどんな行為なのあろうか。福島はこのシーンについて、主人公の内面よりもむしろ、その周囲の気配や雰囲気を描こうとしている。侍の焦燥感や緊張感から引いて客観的にその状況を見ようとするスタンスで、まさしく「見えないものを」見て、描こうとするのだと言う。やはりこれも「行間を読む」行為と言えようか。あるいは「行間を描く」行為なのか。