neutron Gallery - 三瀬夏之介 展 『私は奈良で考える』 - 
2004/9/20mon - 26sun 京都新京極 neutron B1 gallery

新興住宅地という均質な場所で生まれ育ち、今ようやく地元「奈良」の土着のもの と新しいアイデアを融合させんとする三瀬。日本画の領域を突破し、未知なる領域へ と突き進むバイタリティー溢れる展示は必見!




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gallery neutron 代表 石橋圭吾

  三瀬は、「日本画」と「奈良」、このどちらにも非常な執着と反発を見せる。そしてそれこそが彼の制作の最大のモチベーションを生み出すものとも言える。どちらにも共通して言えることは「古い」(=伝統的であり退屈であるもの)という一般的なイメージと、その中に身を置くものとしての堪え難いジレンマであろう。誤解の無い様に付け加えておくが、あくまで一般的な「イメージ」である。しかし「イメージ」はその世界を束縛し、勝手にあらぬ方向へ押し進めて行ってしまうものである。伝統と保守は退屈やマンネリとも紙一重でありながら、熟練の技と歴史の重み、そしてその上に降り掛かるほんのわずかな同時代性をもつスパイスによって現代に存在する意義を確認され、重宝されるのだとすれば、「日本画」にも「奈良」にもその要素は多分に含まれる。
  しかし三瀬はその中では満足できない。そしてそれを充分に知って、感じていながらなおその中に身を置き、自らが牽引者となってでも自分を取り巻く環境を動かしていこうとしている。彼は職業として高校の美術教師をしているが、昨年の個展の際に聞いた話では生徒と一緒に(手伝わせながら)作品を自分の個展用の作品を制作しているのだという(全てにおいてではないだろうが)。彼の熱意に満ちた言動や実際の制作、行動を見ても分る様に所謂「熱血先生」である。GTOならぬGTM(グレート・ティーチャー・三瀬)である。今の時代において自分のこと、目先のことで一杯一杯な人間がどれだけ多いか!もちろん将来の不安や争いの絶えない世界に目を向ければ、当然のことではあるが。しかし三瀬のように自らが先導し、若き者を鼓舞し、さらに作家として新しい何か・新しい次元を切り開こうとする志は並み大抵のものではない。それだけはしつこくも今年も書いておかねばならないだろう。
  今回の個展のタイトルは『私は奈良で考える』だそうだ。昨年は『私は絵を描きたい』だった。何と素晴らしくも単純なタイトルだろう!しかしそれぞれのタイトルには、実は三瀬にとって迫真の事情が存在する。近年のデジタル、映像、さらにはあらゆる仮想現実の浸透によって視覚の懐疑性は問題とするのも難しいほどに蔓延し、なお我々は視覚を頼りに生きる術ばかりを身に付けようとする。携帯電話のカメラすら「こんなもので?」と訝しく思いながら誰か有名人が通れば一斉にそれをかざし、プライバシーそっちのけで写す。「魂を抜く」と恐れられたレンズに対する畏怖も、ダイアナ妃を死に追いやったパパラッチも、もはや何処吹く風。そんな中、もはや視覚表現そのものに懐疑の目を向け、あるいは壊すものも多い。何をどう表現するかは完全に個人の自由と称され、一方で絶対的な価値観はゆっくりと静かに音をたてて崩壊しつつある。それをマイナスと見るかプラスと見るかは後の歴史学者が決めることかもしれないが、一つだけ言えることがある。それは、「確固たる意志を持って生きる」ことこそが今の時代において最大の困難であり、その上で「信念に基づく何かを生み出す」ことは多大な犠牲と労力を伴う。しかしそれが出来る人間とは、逆説的に言えば、そうしなければ生きていけない、そうせずには居られない人間なのだろう。
  今回の三瀬のコンセプトを読めば、彼の言いたいことは一目瞭然である。また、作品を見れば必ずやその熱いスピリットと迫力を存分に味わうことができるだろう。私のコメントはあまり意味を持たない。同じ年に生まれ、同じ時代を生きている人間として「そうだ」としか言い様のない感覚を、いつも感じてやまない。彼が奈良に住んでいる理由。それは、そこで彼が生まれ、そこが嫌いになって、でもそこが好きだから。彼が制作する理由。それは、彼はものを作ることによって雄弁になり、人を楽しませ、そして自己と他者との「すきま」を埋めることが出来るから。夥しいネットワークの網の目は実はスカスカのスポンジのような空虚なものである。そこに感情やエネルギーが存在しなければ、振動も生まれない。彼の作品はそんなスポンジを浸すべきアロマオイルのような、土着と文明の産物である。