どこまでもシンプルに、どこまでも広がる画面。「何も無い」ところに見える「何か」。ノマルプロジェクションでも注目を浴びた作家の待望の個展。今回は従来の「水」のイメージから少し離れ、新たに「花」をテーマに人物の内面から咲く印象を見せる。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
個人的に、中比良の絵画はとても気持ち良くて好きである。何が気持ち良いかと言えば、その「何も無さ」だと言えよう。実際には「何も無い」訳はなく、「何かが有る」のだが、それは単に描かれている単一(あるいは複数の同種の)モチーフそのもの、と言ってしまうのはいささか躊躇する。例えば飛行機がぽっかりと白く広がる空に浮かんでいる。中比良ははたして、その飛行機を見ているのか、飛行機が浮かぶ空を見ているのか、はたまたそんな光景をぼんやり見上げる行為自体を描きたいのか。どれも否定はできないし、どれかだけでも足りないように感じるのは、優れた意味で中比良の絵画が「具象を介在させた心象」としての絵画だからだと思う。つまりは、描かれているモチーフを媒介として、中比良自身の気持ちや言葉にならない心の情景を、ゆらゆらした水面やぽっかりした空に漂わせるがごとく、描いているのではないかと思う。
中比良と「水」との相性は抜群に良い。「In the water (2001)」「Underwater (2001)」「WATERING (2001-2003)」「Out of Bounds (2003)」と、一連のシリーズのほとんどは海やプール、風呂に至るまで「水」が最重要項目となっている。ただしそれぞれのシリーズにおいて、「水」および制作のテーマとしての手法や目線は少しづつ違いを見せてはいるが。あえて乱暴にそれらの小異に目をつむって大同に目を凝らすとすれば、中比良にとって最も重要なファクターとしての水は、背景として、レンズとして、そして境界線として、実に多様な役割を果たしている。そればかりか、心理学の引用を待つまでもなく、水は生命の源としての「海=産み」の象徴であり、人間に限っても母親の子宮の中の羊水そのものに準えることも容易である。おそらくそれらの観点は間違ってはいないだろう。しかしそれだけ「生命」にスポットを当て過ぎても大袈裟に思えてしまう。中比良の特徴として、水は日常的なものとして存在しており、例えば海の光景を描いていても決して大海原を連想するものでなく、波打ち際や浅瀬ののんびりとしたイメージを思わせ、プールや風呂は言うに及ばずありふれた場面としてのそれである。つまりは、暗喩として「海=産み」を多分に含んではいるものの、訴えかけたいのはそれだけではないはずだ。むしろ「漂っている」「浮かんでいる」つまりは「ぽつんと存在している」事こそが全ての作品に等しく言えることであり、中比良作品の根幹なのではないかと思える。中比良自身の獏とした不安や将来への展望の不可視、自分と言う存在の何とも頼り無い姿。そんな誰しもが抱える心象がこれらの絵に写っているからこそ、共感を呼ぶのであろう。描かれている人物がほぼ女性だけなのも、自己の投影の現れなのかもしれない。いさぎよくシンプルに削ぎ落とされた背景と色使いは洗練されているとの印象まで与えるが、その実、洗練とは程遠い人間としての内面がそうさせているとも考えられる。
近作では水に限らず様々な光景を描き、それらが並列に見ることができる。「水」のシリーズという認識や視点は超えて、中比良の存在しうる領域がフラットに扱われるようになってきたことは、画家としての成長と同時にこの先の新しい展開をも予測させる何かが、期待出来そうである。また、「Out of Bounds」で見せた艶やかで健康的なエロス。髪の毛や背中のカーブなどモチーフそのものに対する丁寧な描かれ方は、それはそれで注目に値する。このシリーズに関して言えば従来の中比良像にプラスして、洗練された構成力と表現力を如何なく発揮したと思える。大画面の作品では、圧倒的な画面に向かい合う時、なぜだか感じる安らぎにも似た安堵感。それは頼り無さげにも翼を広げようとする小さな鳥が、大空への憧憬を募らせる想いのような、清清しい若さとそれを包み込む母親のような視点。そんなことを、感じて止まないのである。 今回の個展では今までに無かった、新たな一面が登場する。表層に咲くのではなく、内面から咲く「花」。このモチーフをして、何を伝えることができるか、楽しみにしておこう。