漂泊する写真家、あるいは単なる漂泊者としての写真。 モノトーンから更に削 ぎ落とされた映像と、裏に秘められたデザイン性によって、私達もまた「何処にでも 在る」 路頭に迷い込む?
gallery neutron 代表 石橋圭吾
写真の旅路は今の時代にカメラを携えて漂泊する者の旅路でもある。
どこに行っても均質な言語と既視感に溢れる日本において、「辺境」という言葉の似合う所はそう多くは無い。
雑賀崇にしても、そんな誰も見た事の無い景色など、最初から探していない。
たとえこの写真が北海道は小樽で撮られたにせよ、小樽という街との出会いは彼にとってパーソナルな要素に過ぎず、作品の見方の根幹を成すものとは違う。
極端に言えば、どこでもいいのである。どこの街でも、港でも。
目にしたことの無い驚きを追っているのではなく、そこに居たからこそ撮る写真。
だからこそこれらは路地であり工場であり空であっても、私たちの街のそれとたいした違いは見出せない。
彼の提示する「写真」には情報は意識的に削ぎ落とされ、匿名性を強調され、さらには白と黒のコントラストが強く焼かれたプリントによって感傷的な叙情性さえも排除されようとしている。
「懐かしい」とか「あたたかい」などという生ぬるい表現では収まりのつかない何かを彼は一人旅の途中でひっそりと探しているのである。
雑賀の写真には森山大道の血脈と、現代のデザイン性があやうく同居している。
言うまでも無く森山大道を引き合いに出させるのはその匿名性と、シンプルに「写真は写真でしかない」と言い切る解脱的な姿勢にあるが、実は雑賀には写真を写真以上に見せるデザイン力が有るのは、御存知だろうか。
彼のプリントの焼き具合、構図はグラフィックとしてのそれに近く、それらを提示する手法においても、例えば自作の写真集などを見ても題字からページ構成に至るまで、一切を自身の編集において完璧に仕上げようとする強い演出意識を感じさせる。
つまり、彼の切り取った事象はあくまで「写真としての写真」でありそれ以外の何ものも表さなかったとしても、一方で彼のイメージする漂泊感、既視感、解脱感といった作品性は、写真以外の行為によって為されるのである。
だからこそ危険性もある。
自身による演出過剰は全ての作業を自己完結に陥らせることも考えられ、写真は写真でしかない、という宣言自体を無効にしてしまうこともあり得る。
しかし彼の作家としての素養がどこに存在するかと言えば、間違い無くそれは演出・編集および監督された自己表現としての写真、だと言える。
一枚の写真は無口でも、彼の驚くまでの多弁性を、私たちは発見せずにはいられない。
はたして今回の個展において彼は、どちらの方向に進むのか、注目である。