素材としてのテキスタイル、描画法としての染色。
布という生活に密着した素材を用いて多様な表現の幅を模索し、生活の中で生まれては薄れていく記憶を探る様に、色を付け、洗い流す。その過程はまるで曖昧な記憶の糸を辿る作業にも似ている。
繊細で実験的な初個展。
いつからか私は、描くことに、自分の記憶を辿った線を表すようになった。
私にとって、表現したいと思う重要なところは、「自分によって起こっていたのに、気付いていなかった、確かにそこに出来ていたもの」 にある。
それらは、空白を順番に飛んだり、沈んだりしながら重なってゆき、 曖昧な方へと運び、イメージを広げる。
空気の様な感触であって、いつも心地よく、自由で、わがままでもある。
-常に記憶は変化してゆく しかし、私という状態は変わらない。
記憶のイメージを辿る作業と染色のプロセスは似ている。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
一般に染織といってもその表現は多様である。布及び生地そのものを主題として扱うテキスタイルとしての表現、布に色や絵を付けることで作品世界を表現する染色、身につける機能を満たした上での服飾のアプローチ、そして近年では布生地を一つの支持体として捉え、まるでキャンバスやパネルのごとくそこに絵を描くことによって布の質感を利用し、表現する者。池田も例外ではなくそういった現在進行形の「布」の可能性を模索しつつ、その制作スタイルは多岐に及ぶ。
ポートフォリオに表されている作品を見る限り、2000年から制作される一連の作品は布及びそれに近いものを支持体として(キャンバス代わりに)絵を描こうとするものと、布を素材として用いてある「形」を作り、それに様々な仕事を加えるといった方法の、大きく分けて二つのスタイルを取っている。布をキャンバスのように見立てる作品においては、布本来の透過性も含めて、刺繍や染色、コラージュなど「布にできる事」が次々と模索され、実験されて展開される。そこには作者としての心象や感情も込められているのだが鑑賞者にとって主に印象づけられるのは「布」生地としての可能性であり、表現の目新しさであることは否めない。しかしこういった行為の結果、作者並びに鑑賞者はそれがあくまでキャンバスやパネルと同様に「枠」のある平面としての作業だと割り切っていても、そこに見い出される事象はやはり従来に感じられなかったものとして、緩やかに記憶する。
池田のもう一つの側面と言える、布をある特定の形に整えてから仕事を加える方法においては、私達はもっと布本来の存在感や質感を最初から認識させられ、しかも身近に感じさせられながら、そこに表現される微かな絵付けや染色、刺繍などを見て、ファッションとは別次元のものと知り、少しづつ作品との距離を縮める。それはまるで服飾を志す者の新作展示を見るかのごとき展示風景であったとしても、やがて鑑賞者の意識は次第に真っ白な布に付着・浸透する「何か」=記憶や出来事を察知し、気にしないではいられない。他人の着ているシャツにもし赤い染みが付着していれば、あれこれと詮索しないでは居られないように、私達は模様としてでは無くそこに存在する「何か」の答えを探そうとする。そして、実はそのプロセスが作者曰く、染色のプロセスと似ているのだと言う。私達の記憶・・・つまり私達自身の持っている記憶は、事実としての記録とは違い、極めて朧で曖昧なものである。それは個々の心象や願望によって曲折し、時として都合良く残る / あるいは消される。決して断定など出来ようか。ここにおける染色という行為もまた、何度となく色を付けては水で洗い流すことの繰り返しによって考えながら試される行為であり、それはどこかのある地点において池田の心境と合わさった時、その手が止められる。従って、元から確固たる答えが用意されているのではないが、「こうではないだろうか・・・」という緩やかな意識の働きを探る結果、そこに生じるものの姿も次第に変化し、現れるのである。それはたとえ作者の個人的な作業ではあったとしても、私達が鑑賞する際にそこに立ち入ることは多分に許される。なぜなら私達の記憶もまた、曖昧で茫洋としたものだと知っているからだ。
そしてやはり、布という素材は池田にとって相応しいものであると、改めて感じざるを得ない。染み付き、洗い流し、破れ、縫い合わされるのは人間の心と同じ。私達の最も身近にある布という素材はもはや、人間のあらゆるシーンに欠かせないばかりか、心までをも表そうとしているのか。