緻密に、重層的に奏でられる音楽のように、繊細にダイナミックに描写される「線」 の集合体。それは生命のエネルギーや気の流れを表すかのように、活き活きと躍動す る。圧巻の線描で迫る注目の個展。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
笹倉洋平は主に東京での個展や公募、グループ展等での発表が多かったため、地元関西での個展と言うのは初めてである。ニュートロンでは2004年の8月に開催した『Draw The Line 〜線描の誘惑〜』(線による表現を主体とするグループ展)に参加して以来、満を持しての登場となる。 笹倉の制作をユニークに感じさせる理由として、まず作品形態における表裏性が挙げられる。すなわちそれは、パネル作品としてペンや鉛筆などを駆使して仕上げられたものと、それをスキャンしてパソコンに取り込み、画像の色調を反転することによって生まれるもの。この2つが正に表裏一体となって並ぶことにより、彼の表現する線の持ち幅は確実に広がりを見せる。本来ならドローイングとは作家の意志により初めて生じさせられる線を指すのであろうが、彼が自らのそれをキーボードの簡単な操作で反転させたとしてもそれは、やはり見事に彼の表したい線であることは間違い無い。両者の関係はアナログとデジタルの比較としても興味深いが、単純に白と黒の逆転によって見せられるそれぞれの線の感じられ方、画面の印象は極めてシンプルに対比され、2極的な必然性をもって我々の目に入って来る。それはまるで、集合体としての線が何らかのエネルギー体として存在するかのごとく。染色体に色を付けることによって認識しやすくなるように、存在する運動体やエネルギー体は本来の色を持たなくとも、彼の腕によってこのように見せられるかの様に。 もう一つ、特筆すべきは彼が公言してはばからない「音楽」との密接な関係にある。音響系という、主に電子楽器を用いて音のひと粒ひと粒を紡ぎ出す様に、あるいは作曲者一人で完全に作曲から演奏まで為されるために生み出される音楽は、必然的に他者の介在を必要とせず自立した一個のオーケストラとして鳴り響く。即ちモーツアルトが独創的な楽曲を頭の中で組み立てるがごとく、現代の作曲家はある程度の器材を揃えれば、誰の手も借りずに自らの理想とする音世界を組み立てられるのだ。それらは旋律と音の配置によって寸分の狂いも無く作られる故に、時に難解であることも否めない。しかし、一人の表現者としての人間にとっては万能の手足を持つに等しいことでもある。そして、彼が平面上に表そうとする現象が彼自身の手によって完全にコントロールされ、無数の線の集積がそれぞれに意味をもって成り立っていることを考えると、彼の生み出す作品は極めて現代的な音楽性を持っていることが分かる。しかし彼はその世界に介入する存在を否定せず、むしろ音楽ならば演奏者によって生まれる解釈、アートにおいては様々な視点からの鑑賞による批評があってこそ、素晴しい作品としての強度が増すとさえ考えている様だ。 彼が表す現象は時に具象とも言える形態を示すが、さりとてそのモチーフらしきものが作品の全てでは無い。蠢く線、寄り添う線、流れる線、見えかくれする線、輪郭を形成する線、さらには反転する線に至るまで、全てが万物、森羅万象のエネルギー体の一部であり時に全部でもある。俗に言う「気」をもし目に見える形で描いたら、あるいは「オーラ(霊力)」を線で表したら、このように見えるのかも知れない。しかし実は、ここに何を見い出すかは、完全に鑑賞者に委ねられる。彼の描く線が生命力を持つのなら、それと対峙する我々の「生きた」感覚や感情と触れあい、響きあうことにより作品は機能する。そう、それはまさに、「琴線に触れる」ということだ。