昨年の同時期に開催された「日本國」から1年。
現代日本に無くて、その昔の日本に有ったもの。
それは潔い死への憧憬と、その裏返しである激しい生。
イメージとしての写真を積み重ねながら、じっくりと、確かに有った「それ」を印画紙に焼きつける。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
昨年の同時期に開催された個展に続き、平澤直治の個人的モノローグ的意味合いの強い「日本國」シリーズは2回目の発表を迎える。天皇という、現代社会を問う上でも避けては通れない主題を忍ばせつつ全体にソフトフォーカスを多用してあくまで「印象」を浮かび上がらせた前回と異なる点で言えば「Thanatos」(死の本能)というサブタイトルが添えられていることだろう。Thanatosの対になる言葉はErosである。両者は表裏一体ともとれるから今回の発表において彼が念頭に置いているのは「生あるいは死」どちらにしても不確かな実感を伴う現代の空気を写し出したいのは理解できる。
彼がなぜここまで日の丸、それに附随する様々な被写体を追い求めるかの鍵は三島由紀夫にもあるかも知れない。しかし平澤のステートメントを見ても、あるいはいくつかの写真を見ても、それは決して右翼的価値観を賛美するものでなく、どちらかと言えば平澤自身の体験及び現在進行形のリアリティーを伴う「日本」的な何かを求めているのだと推察される。前回と同様、墓地が頻繁に登場する。特に今回は「Thanatos」を掲げている以上、確かに墓を廻れば死にまつわる考察は出来易いだろう。しかし「日本」と「死」=「墓地」なのだとしたらいささか安直な発想である。はたしてそうなのだろうか?私はこの単純な図式の奥に潜むものこそ、平澤のまだ出し得ない「何か」なのだと感じている。つまり彼自身がカメラを手に探求しているものとは、未だ消化し切れない実世界における「何か」の欠如であり、それを知り追い求めるがために自らにキーワードとなる言葉を選ぶ。それが「日本國」であり「天皇」であり「三島由紀夫」なのだろう。それぞれは一つのヒントに過ぎず、彼がここで見せようとするのはそれらの強い影響力をくぐり抜けて存在する人間の真理なのではないか。現代において人の生死が軽んじられる傾向・・・と一口に言っても、では戦争の時代、あるいは奴隷制の時代はどうだったかと言えば、もっと不公平で命の重さが分けられていたことだろう。しかしそこには残酷なまでの「生と死」が存在し、殉教、聖戦、生け贄といった「生命を賭して為される行為」が存在し、そこに準ずる精神が存在した。今では宗教的価値観の違いや近代的民主主義のお蔭で私たちはそれらの言葉を身近に感じずに済むのだが。平澤は問う。「殉教」した戦死者達は自らの命を投げうって敵を討つとき、幸せだったのではないかと。そこまでして闘う、あるいは生命を賭けられる理由が有った事を羨ましいと感じている。切腹という近代的価値観では「野蛮な」行為は、最高の責任の取り方であり、潔い男の美学の象徴でもあった。今の私たちに、形式的で無くそれらのごとく命を投げ出して訴えたい、成し遂げたいことが有るだろうか?
決して誤解の無いように。これは戦争賛美でも、懐古主義でもない。現代に生きる一人の若者がリアルに実感している「死への渇望」である。言い換えれば「死ぬ理由への渇望」。それは翻せば「生きる理由」でもある。彼だけで無く、多くの若者(おそらく若者だけでなく)が渇いている。平澤の写真は演出が過度な場面も多い。様式美としてだけでなく、ソフトフォーカスの向こうの「何か」をクリアにできる日は、もう少し先かも知れないが・・・。