【 作家、作品紹介 】
私のしていることはとても単純なことです。
真っ白な画面にじっと向かい「ここだ」と感じた一点にペンをつけます。そしてそこから自分が強く惹かれる方向に線を伸ばしていきます。描いた一本の線により、次の一本の線の展開する方向が決定され、この工程を繰り返すなかでいつしか形態ができあがっていきます。作品は特に、具体的ななにかを描いているわけではありません。一切の意味やメッセージから開放された形態がただ存在しているだけ。そのような状態に私はあこがれます。そして、それでも画面から感じてしまう雰囲気や空気感のようなものが鑑賞者に伝われば、理想的だと考えています。
私はペンのおもむくままに無意識のうちに描写をします。
描写をしているときはまるで、なにか外部からの強い意識があり、それを私が感受しそのまま画面に定着するような作業だと感じています。自分自身はペンと支持体を物理的にくっつける役割、まるで黒子のような状態でのみ唯一いられると感じています。このとき自分自身は存在せず消滅したような気分になり、この上ない開放感を感じます。
それに加え最近は、別の要素もある気がしてきました。無意識の状態で日常の感覚から解き放たれたときに、自分自身の奥深い内部にある意識が立ち上がってきているのではないかと思うのです。現実の生活の中では様々な要因により発揮されないでいる感覚が、真っ白い画面と向き合ったとき、余分なものから開放され純粋にその姿を見せている。このときも自分自身は、この上ない解放感と消滅感を感じています。
外部からの不思議な意識を受けているのか、内部からの深い意識を立ち上げているのか。両方に自分は関心がありますが、どちらか一つに結論づけることには興味がありません。広大な大宇宙のマクロの世界と、人体の内部のミクロの世界が似ているように、物事の外部と内部といった、対極に位置するようなものは結局どこか同じところで繋がっているような気がするのです。
一つの映画の感想を言い合うときにストーリーや登場人物の心理描写について話したい人と、予算の内訳や特殊効果のテクニックについて話したい人とでは、かみ合わないことがあります。どちらも同じ映画を構成する要素です。