自分を含めた人間、物質、何かがそこに存在するとは、一体どういうことなのか。絵画における可能性を追い求め、画面上に存在の証明を導き出す。肉片、骨、繊維、気配、そして動き。今までに無い肖像画が、ここに現れる。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
この作家にとっては初の個展となるにもかかわらず、奇しくも三条新京極での現・ニュートロンにおいては最後の企画展となる。そのような記念すべき?最後の展覧会だとしても私も作家も特段の感情を抱いている訳では無い。なぜなら新しいニュートロン(文椿ビルヂング)においても変わらず、いやもっと充実した展覧会を開催しようとしているのだから、単なる通過点でしかないのである。しかし、一抹の感慨というものが有るとすれば、それはやはりこの「場所」に対する愛着、今までの悪戦苦闘の記憶由縁のものであろう。今後、ニュートロン、あるいは私自身がどこに動こうとも、定着しようとも、やはりそれぞれの場所に対する思い出は消える事は無い。私自身が格闘した記憶、それは単に「記録」としてではなく何か形として此処に存在したのでは無いかと言うセンチメンタルな思いが想起させるのである。かたや定点観測的なクールな視点から見た場合、「物」や「肉体」は一時的にその場所に存在したに過ぎず、やがて動き、消え、別の何かが存在する。しかし単に物事の「移動」の事実以外にも、その固定された画面には何かが写っているのではないか。
河井晴香が描くのは、例えば天体観測における長時間露光撮影のように事象が動くことによって写り込む「線」=「光源の移動」とも捉えられる。もちろん河井の画面に描かれるモチーフは天体では無い。しかし現象として、人間という生き物がある場所に存在し、何かの動きを伴ってそこに「居る」あるいは「居た」という事実は天体観測のそれと同じく、固定されたレンズの位置から実にクールに眺められている。『デク』と題された近作のシリーズがそれである。『デク』とは「木偶」であり、俗に言う「木偶の坊」の「デク」であるならば、まさにここでは人間を単なる木彫りの人形のように客観的に存在させ、そこには感情や心の介入は見られない。では、河井は単に冷たい視線だけをもって人間を見、絵画を絵画としてしか考察していないかと言えば、それは間違いである。河井が人間というモチーフを選びながらクールである理由は、「人間」=「自分自身」と置き換えてみた場合、一気にその意味を転換させる。2003年の8月から10月に描かれた「集合」という、肉片の塊のようなシュールでグロテスクにも見える作品の制作メモには、こう書かれている。・・・「自分」というものは、今までに自分のなかに取り込んできた多くのものから構成される、群れ的なものであると思います。ただ、余計なものを取り去った本来の「自分」というものはどこにあるんだろうということを考えながら制作しました。・・・
つまり、河井自身、絵画においてだけでなく、「人間」というものの存在を考察する時、当然ながら自分自身を含めている。人間がそこに居るという事実とは、一体どういう事なのか?映像としての記録、赤外線による熱量の記録、物理的な痕跡、臭い、アリバイ、そして曖昧な記憶。はたしてどれが信頼されて、どれが信頼されないのか。刑事事件ならば自ずと優先順位が付くだろうが、少なくとも絵画においては別であろう。あるいは「存在」とは「生きている」ということにも近付く。自分が生きているという事は、一体どうやったら証明できるのか?作家として絵筆を握りキャンバスに絵の具を塗るという単純な動作でしか証明できないとしてもそこには必ず未だ可能性が有る。少なくとも私と河井はそう感じている。人間が存在した、呼吸したという事実を、絵画が立証する日も来るのかも知れない。