現代人の日常生活に深く根付く、因習や宗教的価値観。
しかし普遍的なのはその形骸でなく、人間の「性(さが)」や営みそのもの。
マスジョが描く丸い画面は、私達現代人が共有するモヤモヤした感情や現象を一見爽やかに、そして本質的に映し出す。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
不思議な事だが、これだけデジタル機器に囲まれてハイテクな暮らしをしながら、私達人間は驚く程古典的で因習的な事象に、時として縛り付けられたままでいる。その最たる物が「占い」や「宗教」、それらに伴う一連の物事では無いだろうか。私達日本人は、世界の中でも珍しい「無宗教」の部類に入る。もちろん特定の宗教を信仰する人は多いが、全体として日本の国教は定められておらず、むしろ雑食性を発揮してクリスマスと正月を祝う事だって容易である。また、実は儀式や祭りを始めとする「行為」は好むくせに、「宗教」と名の付くものに必要以上のアレルギー反応さえ示す傾向が有るのではないか。そんな日本でありながら、いや、だからこそ、昨今流行りの風水や六星占術を代表とする日常的な占いは浸透し、日々の生活に不可欠なスパイスと成っている。
ここに登場する「マスジョ」はそんな現代人の一人でありながら、美術というフィールドにおいて日本古来の神話や伝記をヒントに、作品を制作している。宗教や神話を題材にして制作する者は少なく無いが、彼らの多くはそれらの美意識や形式を踏襲、反映することに重きを置き、現代的モチーフを投影することによって新しいスタイルを作ろうとしている。つまりそれらは「外見」の問題であると言え、モチーフそのものが古い事象であることは殆ど無い。マスジョはむしろその逆だと言えよう。彼女は古典から現代に通じる生々しい人間として「性(さが)」を感じ、年月を超えて訴えかけてくるその真実に耳を傾け、その本質こそを現代美術において蘇らせようと試みているのである。
今回、今までよりさらにマスジョは現代的質感を伴って、作品を発表する。従来よりも日常的な「白」を大胆に取り入れることにより、一見してとても清潔感と幸福感の漂う画面にさえ感じられる。ただ、良く見れば女性と思われる人物の体にはうっすらと痣のようなものが見える。それらを認識した瞬間、それまで実に現代的なポートレートと思えた絵が急に違った側面を見せ、私達はドキリとさせられる。人によって、あるいは性別によってその感じ方は別れるかもしれないが、性的な背徳感や美醜相まっての存在感を見過ごせない。反面、タイトルの「イザナミ」が何を示すかは、そのオリジナルストーリーを想起できなければ全く理解できない。しかし今までこの作家がタイトル、その基になる神話や伝記、それらを冠した作品とその展示形態において少なからず神秘的な様式美の要素を伴ってていたのに比べると、この変化はかなりのチャレンジであり進歩であると言えるのは間違い無い。過去に行った発表より、日常的で本質的な表現になっていることは、これを目にする多くの方が思う事ではないだろうか。
「綺麗」という言葉の由来には禍々しさや神々しさが隠されていると言う。私達が隠そうとする物事に、人間ならではの愛憎や悲喜こもごもが宿っている。それらを全て消し去ったものを「美」としてしまうならば、きっとマスジョの絵は受け入れられないだろう。しかし視覚から呼び覚まされる記憶やイメージは、さらりと過ぎ去る「きれい」よりも強く、しっかりと心に残るのではないだろうか。