メキシコで気付いた、身の回りのひかりや温度の違い、そしてそのかたち。
普段なかなか意識しない物事の「かたち」をさりげなく、ささやかに造形して日常のふとした瞬間に気付く喜びを提示する。
カフェと隣接のこの特殊なギャラリー空間で、どのように見せるか、注目。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
どんな作家にでも、自身の作品制作を見つめ直すきっかけや転機が訪れるものだとするならば、西奥起一にとってのそれはメキシコで訪れたと言えるだろう。私に手渡されたポートフォリオには2001年にメキシコに渡って以来の制作しか掲載されていないことを見ても、作家としての明らかな意識の変化とそれ以降の活動の充実ぶりが伝わってくる。ここではメキシコ以前の制作にあえて触れないが、おそらく今の段階でそれは必要の無いことだろう。少なからず、日本における美術及び自身を取り巻く環境にフラストレーションがあったことは認めざるを得ないが、結果としてそれが制作環境を大きく変える要因につながり、今のスタイルが確率したのだとすれば純粋に「下地」としての期間だと捉えることもできよう。ともあれ、彼はメキシコで一連の制作を進め、遂に日本で発表を再開する。
彼が題材としているのは光や空気、湿気、そしてそれらがゆっくりと推移する時間など、私達が良く知っているつもりでも「形」として捉えていない事象である。光を扱うといっても何かの映像を投影するのではなく、単に「光」として一定に存在させる試みである。「光」には大きく分けて太陽による自然光と、タングステンや蛍光灯に代表される人工灯がある。西奥はそのどちらもモチーフとして扱っているのは興味深い事実である。彼が単なるコンセプトに埋没しないで美術としての驚きを私達に呼び起こさせる事が出来るのは、そのミニマリズムの極みとも言える最小限の要素と、一見してそれと気付かないまでのち密な仕掛けがあってこそである。野外においては当たり前のように存在する水たまりが実は人工的に作られたアクリルの造形であったり、納屋においては午後の日ざしが牧草を照らしているかのような光景が意図的に作られ、また室内では廊下に点される照明によってうっすらと丸い輪郭が床に見えると、それはメキシコの香辛料で縁取られた図形であったりする。現代美術においては何をもって「作品」と言うかはかなり困難な場合があるが、彼の発表も気付かなければ単なる普段の情景にしか見えず、ましてや詳細な説明等されるはずもない。しかし一方で、もし鑑賞者がそれを発見した時の驚きはどうだろう。人為的な自然現象を単にパロディーと捉えるものは少ないのではないか。むしろ、繊細な日本人的発想とち密な造形に感嘆するであろう。そして彼が用いる材料は現地の「何てことのない」ありふれた物で成っている。いや、ここで材料とするべきは光や水分そのものなのかもしれない。特殊な材料、技術、そして西洋的価値観を取り払っても「美術」として人に何かを訴えかけようとする試みは、あまりにも健気で繊細に思えるが芯の強い行為だと思える。それはひとえに作家のアイデアと「ゴミのような美術作品」に対するアンチテーゼの賜物でもあろう。彼は冗談でやってはいない。
今回の発表は単刀直入に「ひかりのかたち」と題された。オープンでもなく完全に閉鎖された密室でもないギャラリーの特徴を彼がどのように活かし、ここでしか見せられないここだけの制作を見せてくれることは、大きな楽しみである。それを「作品」と呼ばなかったとしても、それはそこに存在し、私達はそれを目撃する。彼が生み出す事象はそうやって意識の内側に、すーっと溶け入るように浸透するのだろう。