いのちの尊さを知った時、人は皆自分の宗教に気付く。誕生と喪失のエネルギーは相互に関係し、ひと粒ひと粒の魂は輪廻転生を果す。東京で活動する作家が京都で初の個展。あらゆるメディアを操り、自らの信仰と創造を軽やかに、伸びやかに描き出す。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
ぽっかりとした白いギャラリー空間に忽然と存在するツルリとした小さな生き物。2体のうち1体は弱った様に横たわり、それを大きめの1体が静かに見守っている。しかしその両方の躯には傷が開き、細かな粒状の中身を曝け出している。それを遠くから見守る斑の絵画。そこに描かれているのは母性の様な優しさと神のような創造性を感じさせる存在。私が初めて見た「SPACE AFFAIR」シリーズの個展は、シンプルな構成ながらこの作家独自の観念上の生命観を具現化した展示であった。この「SPACE AFFAIR」シリーズは2001年以来毎年1、2回のハイペースで行われていて、岩崎ななの作家活動そのものと言い換えることも出来る。私が体験した展示以外にも、着ぐるみを着たシリーズや近作のアニメーションやコケを用いた展示等、表現形態は極めて多様である。にもかかわらずそれらは全く違和感を覚えることなく一つの核心をもって行われていると感じられ、単にメディア遊びに終わっていない。曼陀羅、屏風、宗教画のような「崇拝」の対象となる普遍性を備えた絵画作品と、生まれたばかりの様で死ぬ間際にも見える、瞬間的に強いエネルギーを有する生命体としての立体作品。この2つの対峙は観念と実存のバランスを取る上で不可欠であり、ほぼ毎回登場する組み合わせともなっている。それを中心とし派生する光景が断続的に見える中、鑑賞者は置いて行かれた子犬のような一抹の寂しさと神々しさを覚えつつ、しばし作品の中の「粒状のもの」について考える。「これは一体何だろう?」と。
草間彌生の見せる幻視の中の粒子でもなければ、名和晃平の言うピクセルとも違う。この粒こそが岩崎の提唱する輪廻転生の鍵となる物質であるのだが、作品に登場する生命体が「何」であるかが不明なのと同様、はっきりとした正体は明かされない。思えば作者が個人的な経験において感じた生命の儚さと尊さが渦を巻き、辿り着いた個人的生命観がこれらの光景であるとするならば、作品にしろ観念にしろ普遍性を持たなければ強くならない。それには生命種や性別を限定する必要は無く、あるいは個人の思惑に物質を縛り付けるべきでもない。だからこそ鑑賞者は岩崎の観念を個々の体験や宗教観にも照らし合わせて見る事を許されるし、生命体に詰められる粒に思いを巡らすことが出来るのだ。もし岩崎が自己の体験のみを訴えたのであれば、それは作品と呼べるものには成らなかったであろう。
如何にデジタルが氾濫し得体の知れない情報が跋扈する現代であっても、人間の何かを信じようとする思いは在り続けるであろう。いや、現代だからこそ、その思いが一層募るのかも知れない。岩崎は現代作家の例に漏れずデジタル技術を駆使して、アニメーションあるいは原画そのものを作り出すし、今回の個展では意欲的にニュートロンとのコラボレート商品を企画している。どうも美術と宗教はデジタル技術や金銭を生もうとする行為に否定的な場合が多く見られるが、それらに文句を言う前に、表現や信仰の本質を見極めるべきであろう。その本質が在るのであれば、作品も商品も同じメッセージを孕むことに違いは無い。商品を販売することはその教義やメッセージの頒布行為とも言えよう。
何かを失って得る力は人間の創造の原点でもある。遺伝子が完全に解明されようとも、ミクロの医療がどれだけ発達しようとも、私達の身体の中にはぎっしりと詰まった何かが在る。一つ一つ、大切に詰め込まれたそれらを見つけるのもまた、私達自身の役目である。