ニュートロンアーティスト登録作家 笹田 潤 (平面)
伝え聞いた物語、誰かの記憶。
関わるはずの無い人と人とが、記憶の場面を通じて繋がる時、そこに見えるものは。
繊細に重なりあう光景と、作者によって仕組まれるフィルターは、装置として見る者の奥深くに眠る何かを呼び覚ます。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
立体ギャラリー射手座で初めて彼の作品を見た時、真っ白な展示空間にうっすらと浮かび上がるような画面に存在する奇妙な光景にしばし目を奪われた。「私は死なないために殺しをやっていたんだよ」と名付けられたその作品群は、一見して戦争にまつわるモチーフを登場させてはいるものの、弾丸の尻尾のような図形、画面構成、そしてイメージの重なりを意識した繊細な質感によって全体的にはデザイン的に処理されているという印象を受けた。「戦争反対」や「人間の本質」を声高に叫ぶというよりも、冷たい体温なのにじわりじわりと冷や汗をかくような、尾を引く後味。相当に感情をセーブしているかのようで実は内側に激しいものを秘めているような作品。それは作者そのものの人物像とも似ている。
昨年(2004年)の個展では印画紙の質感を前面に押し出しつつ、「写真」とは言い切れない不確かな残像のような光景を見せた。そして展示のもう半分を占めるのは和紙によって茫漠としたフィルターがかけられた様な、コラージュとドローイングの作品達。戦争を連想させるモチーフの登場と、そこに相反するものの登場(花や蝶など)は作品に一辺倒ではない魅力を生じさせている。
これら過去2回の個展の根底にあるのは、作者の祖父の戦争体験談である。彼は子供の頃に聞かされた陰惨で冒険的な話を彼自身の想像(創造)の糧とし、今という時代の情報・メディア・社会問題や個人と社会の関係性をも意識させる作品として昇華させたと言えるだろう。彼の祖父の戦争語りは単にそのまま図案として再現されたのではなく、作者によって時にユーモラスに解釈を加えられ、本質的に同等なメッセージを孕む複数のシーンが生み出される。「弾丸はとんぼのような速さで飛び交うんだよ」という祖父の言葉は「その弾丸に殺傷能力なく」というドローイングシリーズにおいて図案に姿を変え、それはパーツとなって「私は死なないために殺しをやっていたんだよ」において頻繁に使用される。彼の特徴として、まるでコンピュータの画面上にてデザイナーが思案しながら必要な情報パーツを並べ、試行錯誤しているような感覚がある。情報の共有性とでも言おうか、根底に含む情報は等しく、レイアウトやパターンのバリエーションを見せられているかのような。しかしそれこそが彼の言う「作用」をもたらす装置なのかもしれない。作者の意図というよりも、編集に近い仕事、あるいはデザイン(情報の取捨選択を経た再構成)によって過去のストーリーを現在に呼び起こし、鑑賞者に「ことば」ではなく視覚的印象を経て無意識の中から何かを呼び覚まさせんとする装置。だが必ず作者の個人的な意図は存在する。いくら情報を等価値で共有するとはいえ編集者ないしデザイナーの匙加減一つでメッセージは作られ、操作される。笹田の作品にも当然ながらその危険性があるのだが、実はそれは今回の個展で大きく存在感を増すことになるだろう。今回、彼は情報源を祖父の物語ではなく「コミュニティー外」の人物達(自分の今までの人生に関わりの無かった人たち)の初期記憶に求めた。人間が物心ついて最初に覚えている光景である。自分にとってその光景が何の意味を持つのかすら、普通は分からない。しかし純粋だと思われるその情報こそが他者とのコミュニケーションにおいて未知の可能性を秘めているのでは、と彼は考えた。そして再現されたそれらの光景に作者によって斑点状のフィルターが用意され、鑑賞者に作品への深い洞察と連想を強要する。しかしその出来事は彼の仕事次第では、あまりにもあっさりと、劇的に行われてしまうのだろうか・・・。