私達の身の回りにあるものは、皆「名前」を持つものごとたち。でも本当はそうなる前に、きっと名無しの時があったはず。気持ちの整理が付かない時、確かな自信が持てない時、不安な時。ぼんやりと形に見えるものは皆、確かに存在するのです。広がりのある状景に浮遊する「それら」は、きっとあなたにも見えるはず。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
本年3月に京都市立芸術大学大学院を修了したばかりの津村陽子にとって、これが学外での初めての個展となる。しかしながらドローイングとタブローにおいて発揮されるユニークな観点は充分に鑑賞に耐えうるばかりか、何か新しいものを生み出さんとする気配を感じさせるだろう。津村のやろうとしていることは、とてもシンプルで、それでいてとても奥深い。私が興味を持ったのは最終的にはそのテーマ性ゆえであると言ってもいい。
自身のコメントにあるとおり、彼女は物事に「名前が付いていない」状態を描こうとする。名前が付いていないという以上、それは何かに見えたとしてもそれではない。人間とは融通の利かないもので、どれだけ面白い、素晴らしいと感じても「名前」が付いていて「これは何であるか」が判然といなければ、不安でたまらなくなる。それは5感全てにおいて言えることであり、例えば「塩辛い」のか「甘い」のか分からぬものを目をつむって口にする時、食べ物に対する情報が少ない故に脳がそれを判別するのに一瞬の時間がかかったりする。逆に「甘い」はずのケーキを口にする時、もしそれが間違って「辛かった」としても、人間は口に入れてしばらくの間、甘くて美味しいケーキを食べた顔でいられてしまう。つまりこれは「名前」や「情報」による事前の準備、心構えによる知覚の前倒しあるいは予想によるもので、実は人間の感動はこうやって予め用意されている事がほとんどだ。「予定調和」こそが現代の感動ストーリーであり、落し所の無い話は敬遠される。美術館が有名な昔の画家の回顧展で盛況だったとしても、未知のものを扱う現代アートギャラリーは閑散とする。それはつまり、芸術に関する興味の有る無しではなく、そもそも人間とは未知のもの、情報の少ないものに対しては警戒し、遠巻きに見てしまう本能があるのではないか。そしてそれを覆すだけの影響力をもって、新しい価値観を提示するのが美術の役目でもあろう。
従って、津村陽子は作品そのものに孕む「無名・無価値からの創造」において美術の本来性を鋭く突いていると感じる。しかしおそらく、彼女自身が「名前の無い世界」を描こうとする理由は、もっと私的なものであろう。自分という存在、周囲を取り巻く環境、未来、そういった「未知の」ものがあまりにも多いのに、この世の中は「名前」が全て付けられ、それによって安心しているかのように見える。しかし、本当にそうなのだろうか?と。頭の中に浮かぶモチーフ、形状、景色は何かの様であるけれど、「何」と言い切ることは絶対に出来ない。だから絵にするのであって、「名前」で済むのならそれで物事は完結する。
そして津村の絵画だけでなく、表現とはこういった「名前」との戦いでもある。音楽では一つの時代を築くジャンルがあるが、それは必ずその前の形式を打ち破ることから始まる。前衛的であったはずのロックが形骸化した時、それを壊したのがパンクである。あるいはジャズも、テクノも、あらゆるムーブメントは旧態を壊さんとする姿勢を意味していた。そして今、それらは全て名前が定着し、新たな「名前の付かないもの」の出現を待っている。それに気付かない様であれば、時代の要求に応えうる真のクリエーターとは呼べないだろう。
実は当たり前の事なのに、それをあえて言葉にして「コンセプト」だと提示する必要があるこの世界も寂しい。そんな必要の無いくらい、津村陽子の「名無しの状景」が力を持って私達の目の前に現れることを期待する。