ニュートロンアーティスト登録作家 呉鴻(映像インスタレーション)
ニュートロンアーティスト登録作家 中塚智(平面)
かたや版画を基に世の中のゴースト(見えない存在)を視覚的に再現しようと試 みる中塚と、かたや映像というメディアを用いて見なれた光景を変化させ、新たな空 間を現出させる呉。視覚のイリュージョンは動いても止まっても、目の前に現れる。二人展ではなく、合作としての映像インスタレーションに注目。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
二人の現役大学院生によるコラボレーションとなる今回の試みは、お互いの作品性はもちろん、「視覚」という現代の最も重要なテーマを内と外から眺めるだけでなく、中国と日本というアジアの2つの国の同世代の観点を比較する意味でも興味深いものになりそうだ。
中塚智は版画というメディアにのっとりつつ、現実に見えるものと、見えないはずのものをあくまで視覚的に現すことをテーマとしてきた。両者の境は実は曖昧なものだと感じながら、人間の視覚が捉える現象は一律であり、不文律のように扱われてしまう。単にそれが眼球というレンズの性質による光景だったとしたら、この世の中はもっと別のレンズ、別の視覚によって捉えられても良いはずだ。色彩も明度もコントラストも、あるいは輪郭さえ、レンズの性能によって一つとして同じはずは無い。私達人間のレンズは果たして同一のものであり、見えないもの(ゴースト)は本当に存在しないのだろうか?
対して、呉鴻は中国からの留学生であり、映像分野を専攻しているのだが、その作品(発表形態)はむしろインスタレーションあるいは彫刻と言ってもいいかもしれない。つまり彼はいわゆる「映像作品(ソフト)」を制作することに依る「映像作家」と言うよりは、映像というメディアをブラウン管や液晶モニターだけで無く外界の様々な空間・場所に投影することによって生じる仮設の状況を実現することによる、映像インスタレーション(あるいは彫刻)作家だと言う事ができる。その本質は、映像という未だ最新のメディアをテレビという枠の中から解放し、もっと自在に扱うことによって可能になる試みであり、社会的な状況において彼の問題意識を提起する上での手段である。
二人に共通することは、あくまで視覚を肯定的に捉えている事。それだけでなく未来志向で視覚の探究を行い、ユニークな発表を行っている。中塚の水滴のような画面、あるいは新作のシャーレに映る光景は例えば名和晃平のような同時代の作家の問題意識を共有している様に思われるが、彼は音楽、美術、ファッション、スタイルを総括してイギリスのカルチャーからの影響を示唆する。いずれにしろ、今後の展開においては平面に限らず可能性を感じさせる。一方、呉の行う映像インスタレーションは社会性をごく自然に備えているため、例えば蔡国強の生み出す花火のイリュージョンの娯楽性や祭事性、あるいは日本の高橋匡太のような映像彫刻の流れを組んでいるとも言える。そういった作家に無意識にでも影響を受けるのはごく当たり前の事であり、時代の要求でもあろう。
対立する点としては、そもそもの二人の映像に対する立場が挙げられる。中塚はあくまで映像の受け手でありレンズで在り続けるのに対し、呉は投影する側、映像自体を生み出す存在である。また、呉は中国のアートの持つ社会性(政治的メッセージや社会的因習、個人と社会の対峙を常に意識する傾向が強い)をやはり備え、あくまで社会的環境における映像投影行為によって生まれる現象を見せるのに対し、中塚は現代日本人作家がおおよそそうで在る様に、私的な世界観(価値観)から制作の端緒を見い出し、あくまで個人としての存在を貫きつつ、その先にはしかし世の中の多くの人々の共感を期待している。両者は似て非なるものであり、現代の両国の間を行き来する価値観の投げ合いをほんの少し象徴する。
今回の発表は、一つの装置で行われる映像投影のオン・オフの切り替えで現れる光景である。合作という必然性が有るかどうか、ひとまず二人のエゴと調整能力が試される場面ではあるのだが、仮に融合しなかったとしても、それはそれで当たり前であり、視覚とはそんなに簡単に解決される問題では無いだろう。