ニュートロンアーティスト登録作家 齋藤 周 (絵画)
北海道・札幌より精力的な活動を展開する作家が初登場。ロードムービーのごとく展開される画面は、自身の人生=旅を連想させつつも、誰でもが楽しめる暖かで豊かな世界に溢れる。平面という領域を緩やかに超えた展示を予定。絵を描くことから、全ては始まる。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
齋藤周にとって、絵を描くという行為に少し転機が訪れたのは、2002年7月の個展(FREE SPACE PRAHA / 札幌)だとすると、それ以後自らの開拓すべき道に確信を持ったのは2003年5月の同じ場所での発表であろう。それまで、キャンバスに絵を描くという行為は疑われずに彼の表現の基本動作であったものが、初めて壁を(空間を)ドローイングで埋め尽くして以降、齋藤の「描く」という行為はその画面の行き着く方向が自由であるように、開放されていく。スクロールとは2次元的なゲーム画面において縦ないし横方向に画面が平行移動することを指すが、この観念は近年の若い世代の生み出す世界観のルーツともなっている。自分という主役は常に画面の中央に位置し、左右前後のボタン操作によってクルクルと向きを変え、常に正面を見据えて歩き出す。自分がボタンを押した回数だけきっちりと歩は進み、敵が待ち構えていたとしても、自分がそこに辿り着かなければ遭遇しない。が、しかし現実はそうはいかない。
明らかにゲーム世代の齋藤だが、彼の作品を一元的にゲーム画面の影響だと言い切ったところで核心には触れられない。彼の紡ぎ出す画面の連続のどこかに主人公は存在するが、その前後左右、あるいは上下に広がる世界は彼(あるいは彼女)にとっても未知の景色である。時に部屋いっぱいに、時に壁の端から端に伸びる道は、作者の言う「ロードムービー」という表現にぴたりと当てはまる。「ロードムービー」とは、アメリカン・ニューシネマの傑作「イージー・ライダー」(1969年)以後に使われるようになった表現で、自由を求めて葛藤しながら放浪の末に何かを見つける若者の姿を描く手法を言う。「旅」をきっかけに自分探しをするのは洋の東西を問わず、現代でも有効ではあるのだが、「旅」から戻った者が本当の自由と自分自身を発見して帰ってくることは、あまり無い。彼らはいずれ元の生活に戻り、現実世界と格闘し、その先にしか本当の自由が無いことを知るのだから。
齋藤の描く世界における主人公は、はたして自分の居場所や道を見つけることができるのだろうか。パズルのピースのごとく組み合わさる画面は幾通りもの可能性を秘め、絵を描く行為は無限のストーリーを紡ぐ。そして、それに出会う人々によってさらに絵は広がり、豊かなものになっていく。それはまさに人生と同じ、成長する作品であり、それは齋藤自身に等しい。彼が壁いっぱいに描き出す光景は彼自身の人生そのものであり、そこにはまだたくさんの未知の領域がある。
絵画という手法、あるいは平面という領域を打ち破って前進することは若者の特権でもあり、超えられない壁ともなる。齋藤が追い求める道はどこに続くのか、それはこれから何年も先でないと答えられないだろう。「イージー・ライダー」の中でジャック・ニコルソンは言う。「自由を説くことと、自由であることは違う。誰もが自由を語るが、自由な人間を見ることが怖いんだ。」と。齋藤の絵が本当に自由である時、私達はその絵をどんな気持ちで眺めることができるのだろうか。