ニュートロンアーティスト登録作家 山本太郎(日本画)
御存知、お正月に再び登場の「ニッポン画家」山本太郎と、東京のイラストレーター / デザイナーの樋口賢太郎の二人の「太郎」による日本人の日本人ならではの共演。 最も現代的な表現とも言えるイラストレーション / デザインと、古くからの日本画の 殻を破る美術の掛け合いは、時代を切り取る術として刺激しあう。もちろん、お正月 ならではのカレンダーやグッズも盛り沢山。正月早々、見のがせません!
「紅白幔幕図」 2005年制作 各(1690×1656mm) 二曲一双 紙本金地着色
gallery neutron 代表 石橋圭吾
このタイトルでピンと来る人はかなりの映画通か、あるいは1970~80年代に少年期を過ごした特撮世代の方々であろう。1982年公開のアメリカ映画『ブレードランナー』は、フィリップ・K・ディックの原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を当時の最新の特撮技術と、監督のリドリー・スコットならではの映像美で仕上げた、いまだにファンの多い作品である。西暦2000年が夢の様な未来に思えたあの頃、少年ならずとも近未来的世界観にワクワクし、「レプリカント」という未知なる親友に感情移入した。
翻って今、2006年を迎えようとしている現代。ノストラダムスの予言は見事に外れたが、一向にワクワクできない状況が日々増幅する世の中。私達が子供の頃に夢見た世界とは懸け離れた、紛争と犯罪ばかりを目にする毎日。日本とてもはや例外ではなく、地球は温暖化現象と合わせて火の玉のようにあちこちで燻り、崩壊へと向かっているように思える。
かつてヒーロー特撮番組に熱狂した少年達は今、結婚して子供を持つようになった。親達の世代は団塊の世代と呼ばれ一時代を築いたが、「団塊ジュニア」はあれほどの団結力とパワーを持ち合わせてはいない。のだろうか?
いや、そうではない。昔と違って成熟した経済社会においてもはや国民全体を揺るがす現象は起きにくくなってはいるが、今目にする様々なニュースはまさしく、団塊ジュニアが巻き起こしている。スポーツや経済だけではない。芸術の分野でも同様である。もはや欧米の文化を日本が卑屈に真似した云々の話は意味を成さず、むしろ日本のサブカルチャーが世界のメインカルチャーにならんとする時代である。豊かな時代に生まれ、勢いに乗り、やっと社会に出る頃にはバブルが弾けた世代。しかしだからこそ、苦境を楽しみ、したたかで芯の強い者達が上の世代の築いた砂上の楼閣を見事に崩し、リアリティーと地球の未来を背負った世界観を提示しようと試みるのだ。
現代の表現技法の代表的なものがイラストレーションとデザインだとすれば、樋口賢太郎はその両方を兼ね備えて活動をしている。その画面に登場するのはごく平凡な日本の光景ではあるが、もしかしたら知らぬ間に無くしてしまうかも知れない寂寥の一コマでもある。さらりとした線描、冷たい質感は現代的でありつづける一方、従来のイラストレーションには珍しい細部に至るまでの緻密な構成とシンプルに描き切る能力を感じる。一方で山本太郎は、京都のみならず日本各地に「日本画ジャック」と共に名を知らしめんとする、若き日本画のホープである。いや、正確には「ニッポン画」であるが。単純明快にアメリカンカルチャーと伝統的な日本を融合させた作品群は美術ファンのみならず多くのファンを惹き付け、長い間閉鎖的と謳われて来た「日本画壇」に無理矢理風穴を開けようとしている。
たまたま二人の名前に「太郎」が付く事から出て来たタイトルではあるが、実に秀逸で気に入っている。新生児に「太郎」という名前はめったに見られなくなっただろうに、それでいて普遍的な「日本的なもの」を感じさせる。ここで「日本」を多く語るつもりはさらさら無いのだが、一つだけ言える事は、団塊ジュニアが見るのは決して甘い夢物語では無い、と言う事だ。