ニュートロンアーティスト登録作家 衣川 泰典 (平面)
版画を土台とし、様々な画材・手法を取り入れ貪欲に表現を模索する新鋭がニュー トロン待望の初個展。 最近の制作シリーズであるコラージュを基本に、どこかストイックで童心を感じさ せる浮遊画面を作り出す。 流れ星、虹、オーロラ、そして溢れんばかりの色彩とモチーフによって見えるのは、 果してこの世の光景か、それとも幻か。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
衣川泰典は、今まさに注目に値する若手作家のひとりである。昨年11月の『Gallerism 2005』(大阪府立現代美術センター)、今年に入っての『京都府美術工芸新鋭選抜展』(京都府立文化博物館)と二つの推薦による出展を重ね、新しい試みによる制作と、賛否分かれるであろう評価を積み重ねてきた。個展は2004年のマロニエ(京都)以来なので、およそ2年ぶりとなるが、旺盛な制作意欲と発表に対する渇望はまさにピークを迎えようとしている。
「新しい試み」とはコラージュによる一連のシリーズのことを指すが、そもそも衣川は京都精華大学では版画専攻であり、事実、シルクスクリーンなどの版画技法も用いてきた。印象に残るのは、2003年のノマルエディション(大阪)での個展と、続く2004年のマロニエで発表した白い画面にカラーラッカーやシルクスクリーンによるプリントなどによって色鮮やかな放物線が描かれるシリーズ「transparent space」だろう。ぽーんとほうり出されたような感覚に陥る、前後感覚の失われた画面内に漂う色彩と「もの」たち。実は様々な版画技法、画材を用いて制作されたこのシリーズは、衣川という作家の表現の領域を知る上で重要な連作とも言える。しかしながら、これらのイメージが定着する手前で彼はコラージュへと移行する。既に2004年のマロニエの段階で、壁面には「transparent space」を配置し、中央には大きなテーブルの上にコラージュブックが置かれている。おそらくこれを見た人の多くは「?」と首を傾げざるを得ない、一見つながりの感じられない両者だが、作者の思考の中では共通するテーマが存在する。以後、グループ展などにはコラージュ作品が出され、音響やインスタレーションの領域にまで及ぼうとしている(ただし、それらはまだ未完成であり、現在のところは彼を平面の作家と捉える方が相応しいだろう)。コラージュとは随分古臭い技法を、と最初は思ったものだが、彼の表現したい景色は徐々に「切り貼り」の画面上に表れるようになってきた。一般的にコラージュというとどうしても、下世話で垂れ流しの表現が多くなってしまうのだが(個人の趣味の領域と芸術との境目が曖昧になりがちで)、彼の場合は悪く言えば「お上品」で良く言えば「洗練された」質感を持つ故、あまり嫌らしさは出ない。なぜそんな彼がコラージュを選択したのか、その答は実はドローイング作品に隠されている。この5月に小作品展用に持参されたそれらを見て、私は彼の制作の根本となる「イメージ」を確信した。一枚一枚は抽象的な風景の連続であるのだが、それら全てを見渡した時に残る印象は、まるで子供の頃に夜空を見上げて夢想したような「現実とその周辺の微妙な境目の地帯」のようなものであった。もう少し分かりやすく言うならば、「夢」という曖昧で身勝手なものではなく、「世の中の未知と既知の混在における映像の出現」・・・すなわち「デジャビュ」「錯覚(幻視)」に近い、脳内で生成される映像トリックの様なものである。そしてコラージュでは多くの色彩、モチーフが用いられ渾然一体となるのだが、その線の動き、奥行き、「もの」の浮遊している感覚は以前の「transparent space」と同質であることに気付く。背景が白一色で無くなった分、表現の領域は広がったのかも知れないが、色彩に飲み込まれる危険も孕んでいるのは現在のところの課題でもあろう。しかしおそらく、この作家の辿り着く地平はまだまだ先にある。技法も素材も超えた所に、本当に目指すビジョンを現実の質感をもって再現する日がやってくるのは、まだだいぶ先かも知れないが。それは未だ見ぬオーロラのように、スケールの大きなものであって欲しい。