木や鉄といった素材を用い、動物達や草花、人間が活き活きと共存する光景をユーモアたっぷりに表現する赤松キミコが初登場。
滋賀県の自宅兼アトリエで毎年開催する展覧会とは趣を変え、都会での発表に意気込みを見せる。
降り注ぐ陽光は生き物を、そして私達が住む世界を映し出し、エネルギーを与える。
万物の造形と芸術の発端まで遡ったような素朴な作品は、見る程に味わい深い。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
「楽園」という言葉を聞いて、何を連想するだろうか。鳥が歌い、花が咲き誇り、大小様々な動物達がこの世の春を謳歌し、人々は楽しげに採れたての果実を頬張る・・・。おそらく私のこの想像は、少なくとも20世紀の間までは間違っていなかった典型的なイメージだろう。しかしこれから先、子供達が母親から読み聞かせられる事無しにこのような光景を思い浮かべることはあるのだろうか?
少し悲観的な書き出しではあるが、人間の文明の限界(未だ人類はそれを限界と認識したがらない様だが)の訪れによる自然環境の崩壊と、良くも悪くも文明人としての精神に支配された中、「自然」すら消費される商品に位置付けられ、もはやそれに怖れを感じることは天変地異でも起こらなければ難しい。多くの文明における芸術の発端は、宗教のそれと同じく、自然及び人間の力の及ばぬ神の領域(それもまた自然現象なのだが)に対する畏敬の念から生まれたと言えるだろう。動物は古来の壁画に必ず登場し、あるものは神の衣装を纏い、あるものは狩りの獲物として描かれ、人間の営みに不可欠な要素として存在していた。鳥も獣も、昆虫ですら、神格化の対象となり、それらは人間と同じ神の産物、神の分身として扱われていたのである。翻って現在、もはや動物園の檻の中に見える元気の無いそれらにかつての威厳は無く、辺境・未開の地もほぼ全滅した結果、人間は自然や動植物を完全に支配したとばかりに横暴を振るっているではないか。
赤松キミコが滋賀県の琵琶湖のほとりの町で自宅兼アトリエを開いたのは1989年。以来、「春うらら展」と題された自宅個展は10回を数え、造形作家として精力的な制作を続けている。使う素材はシンプルなものばかりで、主に鉄と木。そして光り。これら原始的な素材を用い、彼女はまるで古代の楽園の産物と言えそうなオブジェを数多く創ってきた。鳥、魚、獣、人間、太陽や月、そして草花。当たり前の様なモチーフが実に活き活きと、ユーモア溢れる表情で今にも動きだしそうに並ぶその光景は、インスタレーションなどと言う概念よりもずっと初歩的な、それでいて魅力的な展示である。会場はオブジェそのものの灯り、あるいは間接照明によって有機的に照らされ、鉄による線によって成る作品では影が壁面いっぱいに広がり、まるで薪を囲んで鳥や人々が踊っている様だ。
そう、これらは人間と自然環境が平和に共存し、地球という舞台で豊かな精神性を謳歌できた時代の光景である。そしてそれは、もはや「今」という時代からは遠ざかってしまった世界でもある。万物に対する畏敬の念は作品に注ぎ込まれ、人間が創造を司どる上で次第に忘れてしまった何かを、あっけらかんと提示するもの達なのだ。あまりにも唐突に、現代生活の中にこれらを配置するのは躊躇すら感じる人も少なくはないだろう。
だからこそニュートロンでの今回の個展が、彼女を知らない方々にとって新しく、それでいて懐かしい邂逅であって欲しいと切に願うばかりである。