neutron Gallery - 西野 和利 展 - 
2007/1/22Mon - 2/4Sun gallery neutron kyoto
ニュートロンアーティスト登録作家 西野 和利 (平面)

イメージと絵具の間を緩やかに行き来しながら、表現は螺旋上に昇華する。
光の粒子は万物を等しく浮かび上がらせ、情報となる以前の姿を形成する。
目に映る事象を客観的に見つつ、自身の体内の温度や感覚と結びつく時、画面にはやがて穏やかな一つの景色が描き出される。





comment
gallery neutron 代表 石橋圭吾

 「現代情報社会において」や「情報が氾濫するこの世の中において」という前置きは、アートの展覧会のコメントならずともすっかりお馴染みだが、では果して「情報」とは何なのか、どこにどれだけ氾濫しているのか、そこに言及する者は少ない。
  絵画を志す作家にとってもこの「情報」は無視出来ない存在だが、それは別に現代に限ったことでも無いであろう。目に映る光景をどのように解釈し、どのように操作し、どのように再構築するかは作家の着眼と力量に委ねられ続けているのだから、当然それは情報操作としての行為である。それに「情報」を電気信号に限った場合でも、インターネットの普及より遥か前からそれらは高速で各地を巡り、人々の生活にも、地球の環境にも少なからぬ影響を及ぼして来たではないか。それに限らずとも、太陽(あるいは月)の光線による光の明暗は万物を単なる「もの」から意味を持つ「存在」へと昇華させ、色彩は人間の感情や心理を揺さぶり、風景の奥行きは世界を縮めたいと願う人間の野望の前に常に立ちはだかった。それらは元来、そこに存在していた物体、環境、地理であり、そこに何かの意味を見い出すまでは「情報」として認識されてはいなかった。つまり情報とは人間の思考の及ぶ領域に存在し、かつ永年の進歩によって認識するに至った事象にこそ与えられる呼び名であると言えよう。
  西野和利は主に「風景」という連作を描き、近い距離の作品に「Untitiled(2005)」や「Portraits of everyday life(2001〜2002)」というシリーズがある。後者2つが身の回りのイメージを無作為に抽出した後に「象」として具象的に絵画化したものに対し、「風景」は2006年の近作でこそ同様だが、2004年から2006年にかけての連作ではかなり抽象的な描写により、光とそれに伴う現象を描いているように見える。これは単に両極を行き来しているという事では無く、イメージと絵具との間を螺旋上に緩やかに上昇していく過程において、どちらかの指向が表れる事の様だ。
  もちろん、西野にとって「具象」「抽象」の別はあまり問題ではない。彼にとっては目に映る光景を如何に描くか、が最大の問題であり、その過程において針がどちらに向くか(主にその時期の精神状態に依るようだが)によって決まる程度の違いなのだと言う。だとすれば彼の描きたいと言う「響き」こそが、作品の成り立ちの決め手となってくる。
  目にする光景が広大な自然の風景であれテレビ画面の中の出来事であれ、それは光の粒子の動きであり、信号として等しく脳内に到達する。それをどう受け止め、どう感じるかは受信の仕方による。彼の言う「響き」とは、何もかもを等しく受け止めようと言う事ではなく、あくまで自然に、外部からの視覚情報が自らの体内(脳内)の思考回路や感情と結びつくこと(すなわち共鳴)を表しているのではないかと考えられる。ある存在が意味を持って初めて情報と成りうるのだとすれば、普段目にする様々な光景はそれだけでは情報とするには足らず過ぎ去ってしまうものばかりだが、何かの意味(自らの思考や感覚、感情と共鳴する部分)を有する場合、必然的にそれらは反応し合い、惹かれ合う。同じ事象を目にしても他人には同じ気持ちを感じることが出来ないとしても、彼はその装置的な図式を絵画を通じて表そう(そしてあわよくば他人にも共感してもらおう)としているのだろうか。