neutron Gallery - 大舩 真言 展 - 『 time - moment - time 』 
2007/7/10Tue - 22Sun gallery neutron kyoto
ニュートロンアーティスト登録作家 大舩真言 (平面)

絵画の持つ力を枠の中だけに留めず、展示空間に及ぼそうとする試みは、ミクロ・マクロ的宇宙観を備えた作品によって鑑賞者に届くだろう。日本画を超えた彼の絵画は、建築や環境までをもその領域に近付けようとする。絵画の存在は変わるのか!?





comment
gallery neutron 代表 石橋圭吾

  「絵画のイリュージョン」と良く言われるが、果して平べったい画面の中に広がる世界には無限の可能性と未知なる領域が広がっている、と未だに信じているのは私だけではないはずだ。これだけ美術にあらゆる素材、メディア、技法が取り入れられて久しいが、「絵画」という古びた概念は死なず、それどころか今なお美術のメインフィールドであり続ける。
  大舩真言の表現を絵画と言い切ってしまうのは、その本質の半分しか言い当てていないのかも知れない。あるいは平面(タブロー)という言い方が近いのかも知れないが、そのものずばりでは無い。なぜなら両者とも、作品がその平たい画面上で完結しており、その内部でのイリュージョンこそが本質であるからだ。一方、大舩のそれは画面の内部だけに留まらない。いや、彼自身が留めようとしない。「絵画のイリュージョン」はもとより、彼の作品は緻密な計算のもとに展示空間と共鳴し、鑑賞者に対し作品との距離(間)、視線の高さ、あるいは光量などの条件を提示し、平たい画面が持つ奥行きやそこから発散されるエネルギー、そして内包するイマジネーションの世界観を余す所なく伝えようと試みる。展示会場には彼の指定する立ち位置(ないし座る位置)が存在することもあり、半強制的に鑑賞者がその意図を体験しつつ、そこから更に自分なりの鑑賞方法を探らされることになる。そもそも彼の作品は一見して宇宙的であり、その内部に広がる世界はミクロ・マクロ的両視点において整合性を持つ。だからこそその前に立つ(または座る)鑑賞者は日常的なスケールを頭から取り除き、画面の中に静かに吸い込まれる様に惹き付けられるのだろう。
  だがそれだけでは彼の制作意図の半分しか説明出来ていない。彼はイリュージョンを内包した絵画という作品を、ある限られた空間において彫刻的に存在させることを試みてもいる。「彫刻的」とは、立体造形的なものを指すのではない。例えばランドマークとなり得る特徴的な建造物は外から見れば周囲に影響を及ぼす彫刻であり、一度中に入れば人間を内側から包み込む環境となる。つまり大舩の場合、絵画という平面的な存在ではあるが、その内面を環境と定義するならば、展示空間に与える影響を彫刻的に捉えていると言えよう。もっと分かりやすく言えば、彼の作品は空間に影響を与える絵画、である。
  実は絵画だけでなく美術作品の多くは、その展示空間に何かの印象や影響を与えるという意味では皆彫刻的であると言えなくもないが、大舩は絵画の内と外、それぞれに拡散するエネルギーを執拗に探究しているという事実において、特筆すべき存在である。インテリアなどという生易しいフレーズでは物足りない。彼の描く画面に鏤められた大小様々な粒子はまるで宇宙空間に浮遊する塵の様に、あるいは人間を成り立たせる微細な分子の様に、それ自身が小宇宙を持ちつつ、さらに密集し拡散することにより、濃密で多方向なエネルギーを持ち続ける。大舩が良く言う様に、彼の絵画は決してフラットではなく、既に立体的であるとはまさにこれを言っている。彼が提示するのは絵画の見方でも空間の構成でもなく、絵画というメディアの宇宙的な可能性なのだろうか。
  今回、彼が試みるのもまた、イリュージョンを内包する絵画とその周囲の環境との関わり方である。例えば同じ絵でも、額縁の色が変わったら異なる絵としての印象を与えることになるのか?あるいは空間と絵画との関係はそれによってどう変化するのか・・・?何より彼が会場でそれを実験するのだから、固唾を飲んで見守ることとしよう。