空間から影響を受け、またその空間へと影響を及ぼそうと試みる二人。
映像という、今の時代に欠かせない表現手法を用いて、人間と場の関 わりを模索する。
ついにカーテンが閉ざされるギャラリー空間の中に漂う光線と、その外から揺らめく光を眺める行為は、どちらも「アンビエント」で あるのか。
新鋭が挑む意欲的インスタレーションに注目。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
「masakishimon」とは、なかもと真生(masaki)と小原志門(shimon)の二人による映像・インスタレーションユニットの名義である。彼らは二人とも京都嵯峨芸術大学を卒業し、中本は個展などの発表を精力的に展開、小原は同大学の大学院に進学し、芸術専攻造形複合に在学しつつ発表も行っている。
なかもと(masaki)は本来、洋画専攻であったのだが昨今の現代美術における「洋画」の位置付けが「何をしても許される領域」と解釈されるのに従い、彼自身も自由な素材、技法を用いての表現活動へと傾倒していく。一般にインスタレーション(「装置的設営」などと訳される / 会場・空間を取り込んで一つの作品形態とする手法)と呼ばれるスタイルを取る事が多いが、彼曰く「自己表現ではなくその場から生まれる表現」だと強調する。作家のエゴとしてではなく、自分を含む人間とその場 / 空間を結びつける手段として、あるいは場によってもたらされる発見や感動を少しだけ意図的に誘導する役割として、表現という行為を行っていると言えるのだろうか。今年に入ってから自宅を用いての展示(インスタレーション)を二度も行っている事からも、その信念が伝わってくる。「物を作る」ことだけが作家の仕事では無いのだとすれば、彼の様にアイデアを人に伝えようと様々な試みをする人間は、次世代のクリエーター(作家)として充分に認められるはずである。ただしその為には、なかもと自身がまだ多くの場数を踏む必要があるし、人間に対する深い考察と「場 / 空間」におけるそれが、より求められるのは言うまでもない。
小原(shimon)は映像を表現の手段とし、いわゆるVJ(ヴィジュアル・ジョッキー / 音楽の「DJ」の様に映像イメージをその場に応じてセレクト・ミックスして見せる人)としても活動する事もあれば、やはり空間やそこに置かれた物を利用した映像インスタレーションにも非凡なものを見せる。彼もまた、「自分の見せたい映像 / イメージ」を見せるのではなく、「映像が人にどのような影響を与えるか」「この場に必要な映像はどのようなものか」を考察するタイプの表現者である。現代社会における映像イメージの氾濫には辟易の私でも、少しは腰を落ち着けて見てみようか、と思えることはここでお約束しておこう。
さあ、この二人がこの会場において何をするのか、が決まるまで、本当に長い時間を経た。彼らの日頃の考察とアイデア、技術をいかんなく発揮するものであり、同時にニュートロンのギャラリー / カフェの空間に求められ、一方で人々の意識を少し変化させるもの。ギリギリのやりとりの結果、ついにギャラリーのカーテンを完全に閉ざしたままでの展示が初めて行われる。やわらかな日差しとオーガニックなイメージに包まれる部屋、そしてそのユラユラと動く影を何となく映し出すカーテンを見守る部屋。別個のものとしてではなく、緩やかに関係し合った両空間の印象は、ある人にとっては心地よく、ある人にとっては気にも留めないものかも知れない。その人の持ち時間やその日の気分、あるいは誰と一緒に過ごしているかにも依るだろう。しかしまさに、「アンビエント」(その場に漂う空気のように存在し、人の気持ちをリラックスさせることを目的にする表現)とはこの事である。