neutron Gallery - 表 恒匡 展 『 R 』-
2007/11/27 Tue - 12/9 Sun gallery neutron
ニュートロンアーティスト登録作家 表 恒匡 OMOTE NOBUTADA

写真やインスタレーションを通じて視覚の脆さや不確かさをテーマに 制作する新鋭が、久しぶりに個展を開催。
私たちが普段「見ている」と思っている事象は、実はただ漠然と「見 せられている」に過ぎないのかも知れない・・・。
映り込みや光の屈折など、視覚に邪魔な要素をあえて取り込むことで 能動的な行為としての「見る」ことを促す。
「決定的でない瞬間」は、はたしてどのように目に焼き付くのか。




comment
ニュートロン代表 石橋圭吾

  2005年春に京都精華大学大学院芸術研究科を修了して以来、個展からは遠ざかっているものの、「神戸アートアニュアル」(2005)、「京都府美術工芸新鋭選抜展」(2006)と若手の登竜門と言うべき選抜展に相次いで推薦され、2006年には精華大学内ギャラリーにて行われたグループ展において意欲的な発表を見せた表。マイペースな活動ぶりだが、何故か鑑賞者の頭の片隅に違物感として残る様な作家であり、作品である。蛇足だが彼は本年4月よりニュートロンのギャラリー・マネージャーとしてもキャリアをスタートさせており、いわば自身の管轄するギャラリーにおける初の発表となる。
  移転前のニュートロンでは2回の個展を開催した。最初は2003年、当時彼が集中的に制作していた「Black paiting」のシリーズからの出展であった。これはキャンバスに黒のアクリル絵の具を丁寧に塗り重ね、マチエールを施したり(施さなかったり)、ランダムな文様を描いたり(描かなかったり)した結果の画面(あたかも鏡面の様に輝く「黒い絵画」)と、それに映り込む様々な光景、人物などとの関係を表した、代表的な連作である。黒い絵画は会場にも実物展示され、鑑賞者を映し出す一方、作家の手に拠って既に用意された「映り込みの光景」が配列され、その本来のモチーフをはっきりと認識できるもの、想像するしかないもの、多様であった。このシリーズは後にも「手」にペイントを施したり、より鏡面に近い素材を用いての展開など、発展を見せることになる。
  翌年の2回目の個展では対照的に目くらましの「白」によって私たちを幻惑した。暗い会場内にストロボライトを設置し、一定周期ごとに明滅するその強烈な光によって私たちは視覚を瞬時に奪われ、おぼろな感覚を再生させる過程で彼の用意した写真作品(やはりストロボによって照らされる光景)をじんわりと目撃する。網膜に強制的に焼き付けられる光が邪魔することによって、私たちの視覚の脆さを気づかせることに成功する一方、作品としての成立は評価の分かれるところもあった。
  その後実に3年の間を空け、いよいよ彼の新作個展を開催することとなる。もとは洋画の領域から制作をスタートさせた彼だが、今や「絵を描く」ということをほとんどしない。写真技術と知識に長け、ビジュアル面ではカメラによる表現を主にしている。インスタレーションの印象も強いが、あくまで彼の訴えかける問題意識が「視覚」面にあることを考えれば、必ずしも展示空間という要素を過度に取り込む必要性は無いのではないかと感じる。彼の持ち味は「既視感と違和感の混在する瞬間」における考察だと私は思っているのだが、だとすれば彼の様な作品は日常的な空間にこつ然と置かれていたり、それと気づかずに眺めている方が、より作家の意図に鑑賞者がスムーズに近づけるのではないかと思う。ギャラリーという空間はどうしても「非日常の空間」であり続けるから、彼の言う「決定的でない」表現は足を地に着けない状態で観られることになりはしないだろうか。
  とはいえ、ここは彼のテリトリーであり、その中に「既視感と違和感の混在する瞬間」を生み出すことは彼ならばきっと出来るだろう。液晶時代における超受動的な「視覚」のあり方に一石を投じる、「能動的」 な視覚は、そこから先へ想像力と感受性を育むことにつながるだろうから。ロバート・キャパの提唱した「決定的瞬間」はその背景にこそ意味を持った。そこには歴史があり、時代の目があった。私たちの目は、見せられるためにあるのではなく、見るためにある。