neutron Gallery - 柴田 芳作展 『A Garden in the mind』-
2008/6/10 Tue - 22 Sun gallery neutron
ニュートロンアーティスト登録作家 柴田芳作 SHIBATA HOUSAKU

愛知県出身、東京在住の彫刻作家が関西初個展を開催。FRPを用いたバーチャルな質感によって生み出されるのは、赤子とも未知の生物ともとれる不思議な物 体と、脳みそを連想させる多数のヒダに覆われた奇妙なモチーフな ど・・・。赤・白・黒といったシンプルで印象的な色調によって、神聖なる 「庭」が現れる時、私達はそこで何を想うのだろうか・・・。




comment
ニュートロン代表 石橋圭吾

 禅寺において静かに庭を眺める時、私達は皆、心の中に小宇宙を持っていると教えられる。  あるいは科学では、人体を構成する微細な組織の奇跡的な組合せは、大宇宙を見るに等しいほどの広がりがあるのだと言う。前者は精神的な世界、後者はサイエンスに裏付けられた物理的・物質的な世界を示すのだが、なぜか両者は本質的に相通じているように思えてならない。

 人間というのは勝手なもので、「大きい」/「小さい」の実感は所詮自分たちの身体の感覚に照らし合わせてしか得ることができず、例え自らの体内の細胞であろうとそれを人間が「実感」することなど難しい。しかし一方で、人間は「想像する」ことにおいてはどの生命体よりも秀でていることは間違い無い。庭の石や枯れ木を見て世界を連想する能力が豊かな歴史を育んできたなど、他の動物の歴史においては絶対にないのだが、最近は人間であってもせっかくの想像力が欠けている人が多い様で、家族をはじめ人間関係の悲しむべき崩壊や、バーチャルの世界に懸命に価値を見いだそうとする流行などは、想像力も創造性も無い即物的・刹那的な現象であるとしか思えてならない。

 その様な現代において、柴田芳作は自然の生命力溢れる屋外の広場や、人間の営みの跡地である廃墟などの建造物の構内において、まるで禅寺の借景や枯山水を思わせるがごとく、不思議な立体造形を並べて自らの「庭」を再現する。彼は彫刻作家であるが、その展示スタイルは設置場所である会場・環境と作品が共鳴しあって一つのインスタレーションとして成立すると言っていいだろう。彼の配置する造形物では「脳みそ」の様に見える塊や、うずくまって丸まる人間の赤子の様なものが頻繁に登場し、それぞれが赤や白といったシンプルな色彩を纏って、その場所に置かれている。形状や色彩からは「生命」に対する何らかのメッセージ性を感じるのだが、さりとてそれが何であるのか、は鑑賞者の想像力に委ねられる面が大きい。彼の生み出す庭(=インスタレーション)は彼自身の中にある小宇宙であり、そこに登場するモチーフ達はそれぞれ「生と死」、「美と醜」、「緩と急」、あるいは「善と悪」といった二元的な要素を孕んでいるようにも見える。安易なコンセプトとしてではなく、そこに在るはずの作者の意図/言葉を見つけるには、鑑賞者たる私達も腰を据えてしっかりとその光景を眺める時間が必要になるだろう。それは即ち、「庭」を見るのにはその人間の心が試されるように。

 柴田の庭の手がかりである一つ一つのモチーフは、赤(紅)と白、そして黒を基調とするため、形状はともかく日本の伝統的な意匠からの由来を探らずにはいられない。作家が極めて意識的に色を選んでいるのは間違い無さそうだが、さりとてモチーフの不思議な形状、何らかの生命体を模していると思われるあたりからは、赤(紅)は血の色(即ち生命のエネルギー)、白は表装(皮膜)や骨格、そして黒はそれらが生まれて来る土壌(溜まり)の様なものを連想させもする。

 一方でFRPによる造形物はあくまで無機質につるんとしており、グロテスクな印象は与えない。まるでパソコンの中で成形される3D(三次元)のキャラクターの様に、良く出来てはいるが絶対に不完全な生命体であるという印象さえある。もしくはクローンの様に、理屈の上では生命体であっても何かが欠けている様な…。それらは一向に動き出す気配も見せず、ただひたすら静かにそこに置かれている。祀られている程の有り難みはなく、仰々しい程の存在感でもない。では何のために、それらはそこに在るのだろうか…。

 ここまでくれば柴田の試みにすっかり引き寄せられたと言えるだろう。私達の住むこの世界の片隅にこつ然と現れる、謎の物体の在る「庭」から私たちはどんな小宇宙を想像できるだろう。何を想うかは、あなた次第なのだから。