ニュートロンアーティスト登録作家 行 千草 (平面)
昨年夏のneutron tokyoでの個展『ダルメシアンは溶けたアイスのほとりで佇む』で好評を得て、さらに独自の画面構成を完成の域に近づけつつある、注目の絵画作家が京都初登場。
ドンゴロスという目地の粗い支持体に絵具を載せ、動物や食べ物が平然と共存するシュールな世界を描きつつ、その奥に潜む本来の抽象的で不確実な「存在」に辿り着くことは出来るだろうか・・・?
「晴れ・伊勢海老・虎」 2009年
1455×1455mm(S80) / キャンバスに油彩
gallery neutron 代表 石橋圭吾
この展覧会のタイトルは、前回(2009年夏・neutron tokyo にて)個展に続いて私が作家に成り代わって勝手に付けたものであり(もちろん了承を得ているが)、元は主題画となる作品の画面に描かれている光景を、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」(映画「ブレード・ランナー」の原題)よろしく、言葉遊びをしたまでのものである。だがフィリップ・K・ディックによる小説「アンドロイドは…」がその不思議なタイトルの深層に近未来のロボット化社会に潜む病理と、機械にも感情が宿ることを切なく表現したように、「ダルメシアン」も「伊勢海老と虎」も、行千草の絵画の中では現実におけるその存在よりずっとイメージの中の産物に近く、かつ本能的な意味を潜ませるアイコン(=記号)であり、人間が登場するよりも遥かに切実なメッセージを持たされていることを覚えておいて頂きたい。つまり、絵の中に遊び心があるのは間違い無いが、絵画に表されている事象は広大な想像の大地に根ざした光景の、ほんの1コマにしか過ぎないと見えるのだ。
およそ行千草を知る者にとって、彼女の作家としての作風は大きく二つに分かれるだろう。一つは京都市立芸術大学の頃からの抽象的でくぐもった色彩の、穏やかだが影のあるスタイル。そしてもう一つは2007年当時から次第に発揮されて現在に至る、動物と食べ物が共存するランドスケープの絵画。モチーフだけではなく最近になればなるほど画面の色彩は明るく大胆なものへと変化し、もはやそれ以前の抽象絵画の時と比べて同じ作家のものとは見えない程、制作が変貌を遂げている。今回の京都での個展は2009年夏にneutron tokyoで開催した個展の延長上にあるが、その間に大阪のGallery Den での小さな個展発表も挟んでおり、この短期間に現在のスタイルは急ピッチで洗練され、作家の中でも確信となりつつある。
だがしかし、彼女が抽象的に描画していた当時から変わらない物が一つある。それは画面の支持体となる、「ドンゴロス」という変わった名前の布である。例えて言うならコーヒー豆をぎっしり詰め込んだ麻袋を想像すれば分かりやすい。目の粗い、茶色くくすんだそれは、およそ油絵を描くには相応しく無いと思えるのだが、彼女は思い立った時から今に至るまで、懸命にその素材を用いて自身の制作へと昇華することを試みてきた。その画面の質感は、絵具が薄い部分は布本来の目地がはっきりと認識出来、厚塗りの部分では絵具が必然的にこんもりと盛り上がって見え、その差は画面の中で小さくないコントラストを生み出す。それだけでなく、通常のキャンバスよりもずっと影響力の大きい目地は見る角度によって光の屈折を生み出し、鑑賞者にとっては錯覚とも言えるほどの色彩の変化を生じさせる。そのため、ある一枚の絵を見るとき、些細な立ち位置の変化で見える光景が微妙に変化するため、本当の光景がはっきりと掴めたという手応えを感じるのはなかなか難しい。今でこそモチーフは具象的に描かれてはいるが、さりとてそこに見えている物が果たして本当に「それ」かどうか、疑わしい。そもそもダルメシアンや縞馬が登場するに至ったきっかけは、「擬態」と呼ばれる生物界に遺伝的に存在するカモフラージュの様態の考察であり、行が本来描こうとしている不確かで曖昧な光景・存在から浮かび上がった像であるとも言える。だとすれば、ドンゴロスそのものが行にとっての擬態を描くための魔法の布であり、私達がロールケーキやマカロンを見出して喜んでいる画面には、角度を変えればまた違った景色が常に潜んでいると考えるべきではないだろうか?
(注 : 100号サイズの大作等にはドンゴロスではなく、通常のキャンバス地が使われている)
新作は正月を祝うかの様な、晴れ晴れとした空と気持ち良さそうな海辺の光景に、スペイン料理よろしく盛りつけられた伊勢海老と虎、そして周囲には無造作に散らばったスパゲティやパン、アサリや牡蠣などが印象的な力強い作品である。特に伊勢海老の赤は出色であり、それこそが正月の気分を象徴するものであるのだが、少し引いて画面全体を見ればそれほどの晴れがましさは感じられない。むしろ全体としては風の強そうな、殺風景な海辺の景色とも言えなく無い。シュールで不条理であると言うのは簡単だが、それだけでは私達の視覚から脳裏に焼き付くとは限らない。おそらくはまだ作家自身も本当の意味では見出していない何かが、これらの絵には確実に潜んでいる。そうでなければ、行千草の絵にこれほど惹き付けられることも無いであろう。そこには虎が虎である以前の、言葉が言葉になる前の、根源的で絶対的な「存在」そのものが描かれていると考えることは、果たして不必要で無為な事だと言えるだろうか?