ニュートロンアーティスト登録作家 塩賀 史子 (平面)
光溢れる森林の光景を写実的に描写することで知られる作家が、留まることなくその奥へと歩みを続ける。
2月にneutron tokyoで開催した同名個展とコンセプトを同じくしながらも、出展作品は全て新作で挑む意欲的な展覧会。
私達の住む世界の傍らに存在する、自然の息吹と天上からの光に満ちたまばゆいほどの世界には、光と影によって織りなされる数多の奇跡がすぐそこに、散りばめられていることに気づくとき、当たり前の光景はやがてこの世と彼の地を繋ぐ道筋として、私達の眼前に現れるだろう。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
この個展は本年2月から3月にかけて、neutron tokyoで開催した同名作品展と同じコンセプトでありながら、全て当時から以降に制作された新作を発表するものである。ここではあえて、当時私が書いた文面を以下に引用するが、塩賀史子の制作は根本では変わる事無く、絵画としての進歩は目に見えて加速度的に達成されていることを、最初に記しておきたい。今展覧会に併せて隣接の文椿ビルヂング・ギャラリーでの回廊展では、東京で発表された作品をずらりと公開しているので、ぜひその違いを見比べて頂きたい。
昨年の春から初夏にかけて東京で発表した「残像の楽園」、そして遡って2008年に京都で開催した「かたすみの光」(いずれも展覧会タイトル)、再び今年も東京で発表する新作展には「彼方の庭」と名前が付けられている。どれも塩賀史子の制作テーマとする世界観が詩的に表現された言葉達だが、言い方を変えようとも本質的に彼女の追い求める光景は変わる事無く、移ろい激しい現代における普遍的な物事の在り様を描かんとする姿は、求道者の様でもある。「楽園」「光」「彼方」そして「庭」はいずれもこの世を経た先の「あの世」を連想させる単語であるとも言えるが、やはりここでも塩賀の欲する事は「今ここに存在する光景」のはずであり、私達が普段見過ごしてきた数多の奇跡的な瞬間と、二度と同じ状況は再現されないという無情の論理の膨大な蓄積によって成り立つ、まさに私達の住むこの世の光景なのである。
油画の制作は一貫しているが、いわゆる制作スタイルは抽象から具象まで針の振幅は大きく振れてここまでに至る。本質的に塩賀の描きたい光景は「光」と「影」及び色彩の印象によってもたらされるため、理論上は抽象的に描こうと具象的であろうと可能なテーマであるとは言えるが、だからと言って今現在作家の取り組んでいるスタイルを具象的・具体的と割り切ってしまうと、これらの絵画に対する味わいは半減する。なぜなら描かれているのは世界に宿る一瞬の光の印象によるものだから、例えばロケ地がどこであるとか、それが作家の所縁の場所であるかどうかは、絵を見る際にはあまり重要な情報とは言えず、せめて私達の身近などこか(この世の側)にある光景だと信じることが出来れば良いのだと思うのだ。
それが証拠に、塩賀の描く大きな作品には100号を超える物もあるが、そこに小川のせせらぎや木立の影、草むしろが描かれているものの、いわゆるポスターや従来の絵画にありがちな、お約束の構図とは少し異なっているのに気づくだろう。さりとて私達の見る行為には自然と馴染む、当たり前の視点である事も捨て去れない。絵の中の主役は樹木でも草花でも水でもなく、それら全部が太陽の光によって明と暗を成し、渾然一体となって現出する生と死の雄叫びの光景である。実際に人間の耳に入らずとも、自然物は皆呼吸し、生き物としての寿命を全うするがために生命を謳歌している。そして時同じくして、寿命を果たしたものは死ぬ。それは私達の住むこの世界の傍らで(あるいは中心と言うべきか)微細なものから目に見える形状のものまで等しく訪れる運命であり、常に同時に存在するからこそ、この世界のバランスと言うものは成り立っているのだろう。
絵の中に暗く描かれている部分には、あと数時間後には柔らかな日光が当たるだろう。そして今まさに光り輝く葉は思う存分に光合成を果たし、やがてまた闇夜の訪れを待つことになる。そして明日の光の差し込む角度は、今日とはほんの少しだけ違う。そうやって日々、刻々と世界は変わる。作家がロケーションと見定めた地点もまた、数日後にはその有り様を変えているだろう。だからこそ塩賀が絵を描く理由がそこに存在し、私達は身の回りの奇跡達に常に気を配ることが出来なくても、彼女の絵によって普遍的な瞬間の大切さを思い出す事が出来るのだ。
私達が今ここに存在していると言う事は、まさに奇跡の連続による信じがたい出来事であると言っても差し支えないだろう。その奇跡にいちいち名前を付けていたらキリが無い。塩賀の描く名もなき木立や小川の光景にも、数えきれない名無しの奇跡が確かに存在した。作家はその痕跡と印象を絵具でキャンバスに留めているのだろう。いや、ここに見せられる絵画そのものの成り立ちもまた、いろんな奇跡の集合体なのかも知れない。
「彼方(かなた)の庭」は疑いも無く、私達の住む此方(こなた)の景色であるのだから。