neutron Gallery - 金 理有 展 - 『麒麟幽』
2010/10/11 Mon - 24 Sun gallery neutron kyoto (最終日21:00迄)
ニュートロンアーティスト登録作家 金 理有 (陶)

留まることを知らない旺盛な制作意欲はまさに、時代の寵児と なり得る可能性と将来性を秘めた証。
日韓にまたがる自らのアイデンティティーはしかし、現代にお いてはグローバルな美術の力へと昇華され、美術と工芸の領海をも侵犯し、創造をもって新しい道を切り開く。
土による造形にこめた機能美と神格化を考察し、人間の器官を 配することで見えて来る「うつわ」の姿は、縄文土器と未来を繋ぐ普遍的な存在となり得るか。


 
「醜鶩発起」
2010年 / H1,100×W900×D900mm / ceramic(INAXガレリア・セラミカ個展より)


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gallery neutron 代表 石橋圭吾

 講談社の出版する「週刊モーニング」誌上で異色の漫画が人気を集めている。その名を「へうげもの」(ひょうげもの、と発音する)と言う(著者:山田芳裕)。戦国時代の人間ドラマや甲冑装束などが人気を集める昨今ではあるが、この漫画の主人公・古田織部(ふるたおりべ)は織田信長や豊臣秀吉に仕えた武将でありながら、茶の湯と物欲に魂を奪われた変わり者でもあった。そんな彼が後に豊臣家筆頭茶頭となり、「一見のみで腹よじれる器」の作製を目指し朝鮮に密航、歪んだ器を考案したのが俗にいう「織部焼」の始まりである。文武両道どころか完全に美の世界へ傾倒した彼を、歴史物語の上で知る機会は少なくても、脈々とそのDNA を受け継いだ若者達が漫画「へうげもの」の登場によって集うこととなり、今や各地で展覧会を開催しては好評を博している。ちなみに「へうげ」とは「へうげる(ひょうげる)」の事を指し(漢字では「剽げる」と書く)、「ふざける」「おどける」などを意味する。織田信長が「うつけもの」「かぶきもの」であったならば古田織部こそは「へうげもの」であり、単なる珍奇な趣味に留まらず美術文化をこよなく愛し、目新しいものを集め漁っていた姿はまさに、現代美術のコレクターさながらではないか。

 さて、そんな織部のDNAを受け継ぎつつ、同時に韓国人のDNAを半分受け継ぐ金理有は、筋金入りの「へうげもの」だと言っても差し支えないだろう。今時の若者然とする彼の姿を見ただけではとても陶芸を志す作家には見えないが、その探究心と技術、何より古田織部もびっくりの造形アイデアは一見して忘れることは出来ない、強烈なメッセージとアイデンティティーを誇っている。彼は「へうげもの」展の主要メンバーの一人でありながら、同時に日本の若手陶芸の雄・青木良太の率いる新しい陶芸グループ「イケヤン☆」の構成員でもある。そのいずれにも属しながら際立った存在感を発揮する金は、もう既に日本の次世代陶芸作家の最右翼としてのポジションを確立してしまったかのように、八面六臂の活躍を見せているのである。

 彼の個性的な試みは大学時代から高く注目を集め、縄文土器と近未来のオブジェをミックスしたかのようなフォルム、釉薬と温度による発色を極端に強調するスタイルは他の追随を許さぬ独自の境地へと突き進んでいる。土から生まれる陶という素材が陶芸家の手に依って次第に変貌を遂げ、ある時は祭事に祭られる神器となり、ある時は日常の食卓で使われる食器となり、時代を経る事によってそれらの両極の間にも様々なオブジェが生まれては分かれ、もはや陶芸に未開の領域は無いのでは・・・と浅はかな考えを持ったことを恥ずかしく思うほど、金理有の生み出す作品には陶芸の歴史と革新性を背負って立とうとする意気込みと、時代へ痛烈にカウンターパンチを喰らわそうとする熱いハートが刻まれている。その熱の根底にあるのはきっと、「怒り」である。

 金理有は何に怒っているのか。何のために沸騰しているのか。

 怒りや熱気を自発的なものとするならば、当然その要因は自己と他者の摩擦に依るものである。一般にその場合は全体における自己に対する評価が不当に低かったり、存在意義を認められないことに起因する。だが金理有を語る場合はそのような二元論ではなく、あえて三元論をもってすることにより、うっすらとその姿が見えて来るのではないだろうか。すなわち、新しいものと古いものと自分。美術と工芸と自分。日常(ケ)と祭事(ハレ)と自分。男と女と自分。「へうげもの」と「イケヤン☆」と自分。日本と韓国と自分。父と母と自分。そして未来と過去と自分。彼は隔たるどちらにも「属していない」。それらの三角関係は、自分を除く両者の存在が大きければ大きい程、彼の位置する地点の摩擦熱を高め、必然的に自分が「なにするものぞ」という自己探求へ強く駆り立てる。彼の怒りはアクシデントやミスによって小さな物事へ当たることではなく、自分という小さな人間にはもしかして超えられないかもしれない高い双璧を睨んで勇ましく吠える心の叫びであり、自らを奮い立たせる為の感情の発露である。真っ黒焦げのオブジェ達はその熱量の高さを見せ、ギロリと見開かれた眼は底知れぬ深さと強さをもって、彼の目指す地点の頂きを真っすぐに見据えている。

 銀座INAX・ガレリアセラミカとneutron tokyoの両個展を経てさらに進化する彼の行き先は、この京都での個展で明らかになるかもしれない。



Guest comment
現代の崇高性   窪田研二(インディペンデントキュレーター)

 金理有の作品に特徴的である目のようなモティーフは、あたかも闇の中から用心深く周囲を窺っている冷徹なスナイパーのようでもあり、逆にスナイパーから身を隠す逃亡者のようでもある。彼の作品が持つメタリックで硬質な存在感からは、ある種の攻撃性を感じ取ることが出来る。その攻撃性とは、陶芸というジャンルに留まるための排他的な攻撃性では決してない。むしろ金は、明治以降の近代化において陶芸が「工芸」という非美術のジャンルに分類されて以来抱き続けたルサンチマンや、その結果生じた閉鎖的な因習からは極力自由でいようとしている。同時にそれは「現代陶芸」を主張する一世代前の陶芸家たちの意識とも異なって見える。彼は日本人の父と韓国人の母を持ち、在日韓国人として大阪で育ったことにより、自身のアイデンティティに対する疑問を持つようになり、それが制作にも影響していると言う。他者から与えられたアイデンティティや「ジャンル」に疑いを持つことが、彼を陶芸やグラフィティ、クラブシーン、あるいは現代美術といったジャンルの境界線上で表現をさせる大きな要因となっている。その上で彼の攻撃性とは、未知の領域に挑むという芸術家が本来持つべき重要な素養であるように思われる。

 また金の情緒性を排した幾何学的な文様は、ビートの連続によるクラブミュージックを彷彿とさせると同時に、土着信仰や祭りなどとも通底するトランス状態を生み出す性質を持つものである。同じことが永遠に繰り返される結果、現実から飛翔していく世界。それは私たちが現代の日常をどのように生きていくのかという問いでもあり、これこそが金の表現しようとしている世界観なのではないだろうか。グラフィティやパンクが単なる表層的な反抗の身振りではなく、希望/絶望、喜び/怒りといった感情が不安定に揺らぎながら多様な表現形態を持ちうるように、金の作品からはその表層下に流れる複雑な意識を感じ取ることが出来る。そして多様な感情と表現がシンクロする場所に崇高性は立ち現れる。現代における崇高性とは何か。そんな問いを金理有は私たちに投げかけているのだ。