neutron Gallery - 大槻 香奈 展 - 『雲と石』
2010/11/16 Tue - 12/5 Sun gallery neutron kyoto (最終日21:00迄)
ニュートロンアーティスト登録作家 大槻 香奈 (平面)

自然の声に耳を傾ければ聞こえてくるものは何だろうか。
知りたいという気持ちだけを自分の中に残して、少女という人間を描いてみたいと思う。
社会において弱くはかない存在としての女子高生の姿を代表的なモチーフとし、生きる上での強さと未来への願いをこめて描く、注目の作家が遂に京都初登場!!


 
「母の知らない言葉による遺伝子の行方」
2010年 / 97×130.3cm / キャンバスにアクリル


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gallery neutron 代表 石橋圭吾

 少女であること。それは望んでも叶わぬ理想であり、一方では否が応でも逃れられぬ現実でもある。ここで言う少女とは、まだ自我の目覚めから間もない幼児としての年齢を指すのではなく、自らの年齢、性別、世の中における存在意義や偏見を自覚し、漠然とした夢や目標を探るのもままならない状況にある女性を言い、一概に年齢や服装等で定められるものではない。だが一般に(この「一般」こそが曲者なのだが)少女と呼ぶ場合、日本では特に古くから幼少女を偏愛する傾向から文化が脈々と受け継がれ、昨今でもまさに女子高生然としたアイドルの集団(48人以上居るとか?)がもてはやされるなど、ステレオタイプに陥ったままの概念に縛り付けられている。アイドルはアイドルとしてのあるべき姿を自覚して振る舞い、制服を身に着ける大人未満の女性達は、自らを便利に定義するカテゴリーに甘んじ、それが許される限りで楽しもうとする積極性すら感じさせる。

 だが大槻香奈いわく、そもそも「少女」であることからして受け入れがたく、ましてや一般に押し付けられる女子高生のイメージなどは、自らのその時代においては苦痛でしか無かったと振り返る。当たり前のことであるが、誰もが通過する年齢や、適用されるシステムだけでカテゴライズされることなど、本質的に人間は求めていないはずなのだ。だがしかし、弱冠二十歳にも満たず世の中の右も左も分からぬ女性としての存在において、周囲の偏見に負けじと己の振る舞いや思想の萌芽をアピールすることは、容易に出来る事ではない。だから結果として自己の発露は己の内面に自己嫌悪として消化不良を起こし、やがて振り返ってみることすら恐ろしいほどの時代として自己の中にひっそりと仕舞い込まれることもしばしばであろう。それを過去の苦い記憶としたまま今を生きる女性達が多い中、大槻香奈はその苦悶を逆手に取ったかのように、今の時代にビジュアルワークを産み落とす原動力としている点で非常にユニークと言える。そして大槻がこのような美術ギャラリーと呼ばれる場所で作品展示を行うまで、その制作はイラストレーションとしてのみ成立すると思われて来たのだが、作家自身は自己の純粋な表現の欲求を掘り下げるため、あえて偏見と苦悩に満ちた美術と呼ばれる世界へと入って行くことを決意したのである。まるで女子高生が女子高生であることを漫然と受け入れることを拒むかのように…。

 大槻にとっての永遠のモチーフである「少女」は、大方の見られ方においては世間一般の期待に応えている様にも見え、実は全く媚びていない。彼女達は一様に笑わず、真っすぐと前を見据え、簡単には表情をすら読み取らせない。あくまで女子高生として見えるのは、着ている制服(セーラー服)と幼い表情からであって、彼女達自身が「女子高生」であろうとしているとは限らない。大槻自身の視野は次第に、感情移入すべき対象としての少女をあえて現実社会における「事象」と据え置くことで、より広がりを見せている。少女は現象でもあり、生き物としてしか存在し得ない。フィクションとしてのストーリー性を強めるよりも、あくまで客観的にその存在を俯瞰しようとしているのが近作の流れでもある。そこには定番のセーラー服も今までの様には描かれず、作家自身が従来の定番イメージを超えて少女達の存在そのものを描こうとしている試みの現れとも言えよう。それは必ずしもドラマチックな美少女絵画を期待する一部の大槻ファンの思いには添わない事かもしれないが、それもまた、作家として世の中にメッセージを発する上での覚悟の表れでもある。約束事としての少女など、大槻香奈は描き続けるつもりはないのだ。

 現実の少女はやがて大人の女性として、母として、様々な出来事に直面することになる。それは時に戦いとも言える厳しい事もあれば、おおらかに受け止めて許す時もあろう。大槻の描く少女の姿にあらゆる女性が年齢を問わず自己投影できるのは、自らの内に仕舞い込んでいた少女としてのアイデンティティーを思い出し、やがて少女が母性を知った上で世界が異なる見え方をした事を想起し、そうした対極的な性質を抱える「女性」というものを矛盾なく描こうとする姿勢を作家から感じるからであると言えよう。無論それは女性に限らず、世の男性達も真剣に向き合わなければならない「事象」として。