写真と絵画を比較し、ぶつけあい、生み出される視点の数々。初個展となる今回は、 目に見えるという事象に対する考察を巡る発表。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
表は、大学では洋画を専攻している。私が思うに、いわゆる「洋画」と「日本画」の専攻の違いが有るとすれば(特に日本の大学において)、それは前者が「時代の問題意識」を明らかにするための手段であるのに対し、後者は表現の技術的基盤を築く部分に比重が置かれるという点であろう。もちろん断定するのも問題があるが、「平面」(に限った話でも無いが)で表現するにあたって、技術と問題意識(テーマ、時代性などを含むトータルなコンセプト)は必要不可欠な要素である。それを大学の4年間あるいはその後の研究課程の数年間において、どのように優先順位を設定し、取り組んで行くのかは個々に委ねられているとも言えるし、いずれにしろどちらかに偏重してしまっては未熟な表現のままになってしまう。
彼の属する京都精華大学の洋画の分野では、優れた指導者の好影響のもと、若い世代において己の美意識と時代の意識、独自の表現手法に果敢に挑んでいる者が少なからず見受けられ、私個人的にも注目している分野ではある。表にしても、今回の企画が初の個展ではあるが、発表に至るまでのプロセスや制作課程などを見ても、惹き付けられるものが多い。
彼の作品あるいは制作を特徴付けているものは、端的に言えば、「写真」と「絵画」のそれぞれの領域の侵略と往来である。平面での表現を追い求める彼にとって、その「視点」はある時はカメラを構えてのファインダー越しの「トリミング」の視点であり、またある時は事象を抽出してキャンバスに現出させる「絵画」的視点であったりする。どちらかだけでは彼は違和感を隠せず、簡単にそれらを折衷したところで納得もいくはずが無い。両者の「差異」を並べてみるならば、まず「写真」には一瞬の状況を留める記録性、トリミングや引き延ばしによる可変性、色彩や構図をほぼ忠実に顕わす再現性などがある。一方絵画においては、いわゆる作家の自己の内面の投影としての表現性、画材や素材を自由に組み合わせての可能性、さらには時代性や脚色性など、事象をそこに留めるには自由度の多い手段であると言える。
表が問題とするのは、そのあまりにも自由度の高い絵画に描かれるものへの信用度への疑問であり、一方で写真に写されている一見事実に忠実な、実はやはり脚色され切り取られた事象への不信感である。おそらくどちらかひとつでは彼にとっては自身の表現を委ねるには信頼が足らず、両者の欠点と長所を結び付けあい、あるいは反発させあうことでまずはその問題意識そのものを見せようとしているのであろう。「フォト・ペインティング」などという汎用のスタイルではなく、「目」に見えることそのものを疑ってかかるような、自己否定的立場から始まる表現であり、作家性というものはその提示する場面においてより少なく、「見る」「見せる」行為にこそ主体を移していっている。3月の卒業制作展において出展された「絵画写真」と呼ばれるシリーズで私が感じたのは、まさに「絵」に描かれているはずの事象との距離感の危うさ、視点の定まらない不安であり、それを実現するために「写真」として発表した彼のアイデアには共感を覚えた。彼の取り組もうとしている課題は極めてスケールの大きいものであり、そのひとつひとつの発表の度にまた新たな問題が生じる。作家性よりも行為としての意味をひたすらに求める彼の「表現」はまだ始まったばかりで、先は長い。
今回の発表においてはその問題意識が極めて明解に伝えられる一方、「作品」と呼べるものは少ないかもしれない。何をもって「作品」と呼ぶかは判断が難しいが、彼はもちろん、「写真」と「絵画」の両者をぶつけあい、今回のアイデアに至った。どのような評価が与えられるかは、その発表を見た個人に委ねたい。