今年2月の初個展に続き2度目となる今回は、ニュートロン石橋のプロデュース による企画展。
夜を徘徊する視線の奥に確かな表現力と心の奥底のざわめきが写り込 む。注目の新鋭。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
その写真には、なにやら得体の知れない気配が漂っている。
武田コトの2回目の個展となる今回は、ニュートロンの企画として行われる。それはすなわち、彼が今年の2月に自ら提示したいくつかの視点の中から、最も魅力を感じる写真郡を追究し、ひとつのまとまりとして見せることである。まだ経験も可能性も未知の部分の多い彼にとって、この企画が大きな足掛かりとなって欲しい、また彼を知らない多くの人に深く印象づけたいという思いがある。
彼は自分が精神的に(あるいは肉体的な所からくる精神的な)ハンディを背負った人間であると常々思っている。アトピーにひどく悩まされ、昼間に外出することは苦痛と疲労に結びつく。しかしだからと言って、そうしない訳にもいかない。カメラを志す者にとって、日光は重要な照明源であり、その陰影によって様々な表現が試みられる。武田コトもその恩恵を蒙りたいのはヤマヤマであるが、肉体がそれを躊躇させる。果たして人間にとって真のハンディが何かはさて置き、武田は「人並みの」写真表現をするにはいささか不自由なようである。自然、彼は夜間に外出することが多い。目的が存在すれば「外出」であるが、時としてそれはカメラを片手にふらっと散歩する行為であったりすると、「徘徊」と呼ばれる事にもなる。そう、まさに彼は「徘徊」している時間に、これらの写真を撮っている。そこには昼間では見る事の出来ない、数々の夜の景色が映っている。夜は人間にとって古来から恐れを抱かせるものであり、秘めやかな時間であり、安息の時間でもある。しかし武田にとって、この夜こそが肉体と精神が悲鳴をあげず、むしろ覚醒した状態でいられる貴重な活動時間であるのだ。
今や我々の生活リズムも夜間型と言われるスタイルが定着し、誰もが寝静まるという時間は無い。しかし、人間と言う動物は「夜」を意識する。だからこそ、夜更かしや夜遊びに快感を覚える。そこに有るのは、本来寝るための時間において自分が覚醒し、味わうことのできる興奮状態と、日光の影響が及ばない世界の沈黙の表情である。夜の繁華街は別として、人間の動かない景色はどこか空虚でありながら、建造物や自然の存在がにわかに迫力をもって感じられる。知り慣れている場所でも、そうでない場所でも、夜は平等に現れる。それは良く言う「昼は貞淑で、夜は淫らに・・・」では無いが、男性が夢見る魅力的な女性像にも似ている。艶やかで、得体の知れない魔力をもって我々を引き込むのである。
武田はこの感覚に「ざわめき」という言葉を当てはめた。自らが自由に活動できる時間帯によってもたらされた必然的な光景と感覚。彼は果たして人より繊細で、感受性が強く、表現力があるのだろうか?その答えを出すのはまだ時期尚早ではある。しかし一つ言えるのは、いかなる人間もコンプレックスや悩みを持っている。だからこそ何かに打ち込み、こだわりを持ち、気を注ぐ。彼がもし現在の悩みを持っていなかったら、これらの写真を撮る事も無かったかも知れない。芸術という言葉を使わずとも、表現とはそういう源泉から生まれる部分が多い。彼が優れているのはその感覚を、写真と言う媒体を通じて我々に伝えることが出来る、という点である。彼がその瞬間に感じた心の変化を、我々はこの写真を見る事によって受け取ることができる。夜の写真自体は珍しくも無いが、彼が本来なら昼間に撮りたかったであろう、喜びや驚きと言った内面の表情を、夜が優しく包み込み、言い知れぬ魔力によって昇華させているのである。私が見せたかったのも、単なる夜景や近未来的情景や神秘性ではなく、彼の心象風景としての写真なのだ。信号の赤さは時として感動的に眩しく絶望的で、車のヘッドライトは自分と同じく彷徨える魂にも見える。どう思うことも、夜は許してくれる。全てをあからさまに照らしだし、逃げ場を無くそうとする太陽の父性に対し、夜のささやかな月明かりと外灯の道しるべは、彼を救済する母性の様にも見える。「たそがれ」の語源は「誰そ彼」だと言う。日が沈み、遠くに見える人影が誰であるか分らないことを指す。まさに夜は、人格をも消し去り、彷徨える視線のために存在するのであろうか。