愛知県出身、武蔵野美大を経て京都市立芸大で学んだ作者が初個展を開催。日常 の何気ない自然の存在からイメージを膨らませ、自己をフィルターとして繊細でスケー ルの大きい作品を展開。5階ではドローイングや立体の小品を中心に展示、地下は一 面に広がるインスタレーション。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
大和の言うように、我々は(今日の都市生活を送る人間として)日常の中で極めて当たり前に「自然」という存在を受け止めて、流している。通常、「自然」という言葉を発する時にイメージするのはどこか山奥の雄大な風景の広がりであったり、人工的な建造物との意図的な対比によって連想する「不自然な」「自然」であったりする。しかしながら意外(でもないだろうか?)なことに、例えば東京でも都市部の公園や学校などの緑地は結構な面積を誇り、かつて先人にイメージされたような「メトロポリス」的な完全人工都市の風景は新宿辺りのごく一部でしか感じ取れない。各地方都市なら言うに及ばず。緑地整備計画のおかげか否か我々は至極平穏に人工と自然の共存を目にしている。そして山村や離島、僻地に済ん住んでいない限り、その風景を意識の中に共有することができる。
例えそれがマンションの一室にぽつりと置かれた観葉植物であったとしても、その蔓は伸び、窓から差し込む光ひとつで様々な表情を見せる。ちょっとした庭でも有れば、手入れしようがしなかろうが雑草やミミズの出現によって自然なるものを発見する。そして天候や地震など「現象」ともなれば避けて通ることは不可能である。どのみち、我々は自然の中に暮らしている。だが一方で現在、「風景画」を描くとする。そこに登場するべきは街の風景であり、それは雑踏やゴミ、派手な看板や車の列を含んでいる。それら今日的な要素を排除してまで「風景画」たらんとすれば、逆説的に「不自然な」風景だと言う事になる。人工と自然の調和(というより同居)は画面上に現れて然るべき、というのが私の意見である。
さて、では大和の顕わそうとする風景とは何か。彼女の作品(インスタレーションとドローイング、そして小さな作品群)を見ればまずは「自然」という言葉が似合いそうである。しかしその「自然」は、まさしく前述の通り我々の今日共有している日常の中の「自然」である。彼女は決して秘境や郊外に足を伸してスケッチしたのでは無い。庭先の枝、枯れ落葉、水たまり、道草・・・。そんな当たり前の現象や存在。あえて「自然」などと大袈裟に言わない現象。しかしながらそこには自然現象としての行いがしっかりと刻まれ、注意して見れば自然の摂理や法則がちゃんと仕込まれている。造花や着色では決して表現できない何かがある。いくらデジタル技術が発達して完璧なる写実を試みようとしようとも、おそらくそのシンプルで絶対的な差異は乗り越えられない。その「何か」とは?「匂い」、「存在感」、「気配」・・・様々な言葉をあてはめてみても、どこか足りない。物理科学あるいは自然科学及び数学の世界で「フラクタルi幾何学」というのが有る。「カオス理論」と並べて言うこともできる。簡潔に言えば、樹木の枝葉の付き方、地形における水(川や流水)の流れ方など、自然現象には一定の法則がある(はずだ)。それを難しい公式によって割り出し、スーパーコンピュータによって高速計算の上、グラフ化するとそれはグロテスクなまでに奇妙な模様を描く。蜘蛛の巣がとめどなく繰り返される螺旋運動によって作られているような。自然現象とはあらゆる地球上の現象の総称であり、互いに影響しあい、連鎖しているものなのでそれらをひとつの公式で表すのは無理なのであろうが、その「自然の摂理」の真理に近付いたと感じた時、我々はその恐ろしいまでの魅力に取り付かれてしまうだろう。ヒッピーや「トランス」音楽を好む人々がこの模様を愛好するのも興味深い。
大和が魅力を感じるのも、そんな現象に日常で何気なく気付いた瞬間なのかも知れない。それはごく一部である。しかし、そこには現象としての普遍的な広がりがある。ミニマルなディテールは、実は圧倒的なスケールを内包している。作者たる大和はそれをたち表す前で一個体の存在としてたたずむのか、果たして立ち向かうのか・・・。地下の人工的空間におけるインスタレーションと、柔らかな日光の差し込む5階でのドローイング、小作品の展示。この両方によって大和は自らの表現の真価を発揮しようと試みる。