neutron Gallery - 入江マキ 展 『なくした鍵は皿のなかにあるらしい』 - 
2004/1/27Tue - 1Sun 京都新京極 neutron B1 gallery

現実の世界にぽっかりと空いた異空間への落とし穴。ドキドキ・ワクワクの昂りと 傍観者としての平静さが同居する絵画世界。「不条理」や「不思議系」で済ませられ ない、絵本的心象風景。






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gallery neutron 代表 石橋圭吾

  ひと昔前なら「不思議系」とか「無感動」、「不条理」などと括られていたこのような表現はしかしながら、新しい世代の共通の感覚として確固たる地位を築き、その本質的な意義に対する議論や解釈が求められる時代になっていると思われる。入江の表現もその例に漏れず、作品に対する印象を従来の言語で指し示すのは難しいとされてきた。だがそこに挑もうとしなければ、我々アートギャラリーとしての責任や務めを放棄することになる。アウトサイダーやサブカルチャー的に簡単に流してしまうのでなく、個々の作家に対しての踏み込んだ解釈や議論が絶対に必要だと感じている。
  さりとて、入江のように若くて自らも自己の表現における葛藤と社会との関わりに四苦八苦している作家に対する定義は容易ではない。「コンセプト」有りきの現代美術としての側面も無いわけでは無いが、そこに横たわっているのはあくまでパーソナルな世界であるからだ。言わば、雰囲気や時代背景は共通していても、百人いれば百通りの解釈が成されるべきである(どだい、一個人としての作家を何かに括るのはあまり意味が無いと感じる)。では、入江の作品世界とは、どのようなものだろうか。ここで私はその作品世界に向き合う術として、そこから受ける印象はもちろん、入江自身によるステートメントを参考にしながら入江自身がそうであるように、「極めて客観的に(あるいは傍観的に)」対峙してみる。
  特徴的なのは、その「舞台セット」のような画面(背景)において、入江作品にはしばしば同じキャラクター(役者)が登場し、時間や色を変えながら様々な動き(芝居)を見せる。第一印象としてどこに取っ掛かりを見い出すかは観客に委ねられるが、「キーワード」的なモチーフや要素は意外に多い。それぞれに心理学的な考察を加えることも可能だが、それで「心理・心象的絵画」で済ませるのも安易であろう。問題は、入江ならではの「スタンス(立ち位置)」である。「低体温」の世界とコメントされたこともあるその世界は、客観的で傍観的な画面構成となっている。「遠い席ほど見えるものもある」と自ら述べているように、意図的にそのようなスタンスをとっている。では、入江が見ている(見せている)のは何か。「夢」などと簡単な言葉で済ますべきでは無い。「小さい頃、かくれんぼをした時に物陰からこっそり覗くいつもの世界は全くの別物だった・・・」。それは現実世界におけるぽっかりとした異空間への入口であり、そこに潜む「何か」であり、あるいはその「気配」である。入江ならず、我々は感覚としてそのような体験を覚えているはずだ。「居るはずも」無い「何か」は「夢」でも「現実」でもない異形のものたちであり、常に我々の傍らに、ひっそりと寄り添っている。この異空間と現実の交差点を入江は描こうとしているのか。入江の脳にインプットされているのは信号としての既視感(デジャビュ)であるとするならば、それらは異形のものも現実のものも同等に埋め込まれ、境なく現れる。だとすると、入江の作品世界を「客観」だけで捉えるのも間違っている。「心象風景」であるとも語るように、「主観」も織りまぜられているからこそ、そこにストーリーが紡ぎ出される。何やらおかしな出来事をただ指をくわえて見るだけでなく、そこに突っ込んでいくでもなく、「じっと見る」。そのスタンスは本質的に現実における入江のそれと、異形を感じた際のそれと変わらない。だからこそ、全ての情報を並列に扱った末の世界が「出て」くるのであろう。「無意識」なのでは無い。「意識」が「無意識」に及んでいるからこそ、「無意識」が「意識」できるのである。
  「鬼」という言葉は元来、日常に潜む不可解な存在や意識を指したと言う。だとすれば入江の作品世界に登場する人物やモチーフもまた「鬼」である。でも、怖くは無い。我々が入江の作品に親しみを覚えたのなら、我々はその鬼を見たことがあるはずだから。