【 作家、作品紹介 】
私の作品はなにかのイメージを持って制作するというよりもまず無意識に描き出された形態があり、そこからなにかしらの空気感がうまれ画面に定着されるといったプロセスを経て出来上がる。真っ白い静寂を保つ真空状態の画面にペンを片手に対峙するうちにボヤッと形態の一片が見え始める。この一瞬をつかむことに成功すれば、その後は自分の体を誰かが使っているような感覚になり画面に形態が作られていく。描いているペンは確かに自分の左手に握られているのだが、形態の展開の行く先に私の意見が入る隙はほとんどなく、また入る必要も感じない。
そのようにして出来上がってくる私の作品には具体的な意味やメッセージがあるわけではない。まるで石や木がただそこにあるだけといったあたりまえの、これ以上説明の仕様のない単純な有様が、私が作品に求めていることだからだ。なんの意図も作為もなくただそこにあるというそれだけのことが、そのあまりのシンプルさゆえに非常にダイレクトにスピード感を伴って鑑賞者の心の琴線にふれるのだと思うのである。
作品を制作していて私が醍醐味だと思うことのひとつに、まるで自分がいなくなる様な感覚を味わえるというのがある。自分がいない状態なのでその気分をリアルタイムで感じるのは矛盾がある。ゆえに大抵は振り返ってみての感想になる。その状態はとても静かで真っ白で清潔な雰囲気だ。空間は無限に広がり、一切の意味がなく、時間が止まっているようだ。自分は肉体が無く感覚だけでかすかに存在しているような状態である。
静寂に関していうと、落ち着いた湖のような時もあるが、私が好きなのは、喫茶店でボーっとコーヒーを飲んでいるときにふいに店員がグラスを落として割った時の突き抜ける空気や、駅のホームでたたずんでいるときに突然フルスピードの新幹線が目の前を通過した時のような、一切の言葉や自分の身体感覚が無化されてしまうような種類のものだ。そのような激しい静寂に包まれると私は自分がいるということも忘れ、清潔で安らいだ気分を感じるのだ。子供の頃私は全校朝礼や教室での授業のさい、生徒がわいわい騒いでいるのを見かねた先生が「静かにしろ!」と叫び一瞬にして場が凍りつく瞬間がなぜか好きな生徒だった。
私は今のところそんなにハイペースで作品が変化するタイプではないが、ゆっくりと少しずつ描くものが変わってきている。なにを契機に変わるかといえば自分にもわからない。自分が変えたというより絵のほうが時期を見て勝手に変わってしまったという感覚のほうが正確だと思う。自分ではどんどん前のスタイルの作品の内部に入っていっているような気がしている。と、同時に外側に広がっているようにも感じることがある。
昔どこかで見た映像でこういうのがあった。人物にカメラが寄り続け皮膚を通過し体内にまで入り込み、原子や素粒子の世界にまでいきアップがとまる。と、突然カメラが急速にズームアウトし始め体内を来た通りに帰りだしついに人物から抜け出しそのままカメラはぐんぐん上昇する。大気圏を出て地球の輪郭が見え、やがて地球が宇宙の闇に飲みこまれ銀河系のたくさんの星雲が現れ限界までカメラが引いたところで止まる。この限界まで縮小した体内のミクロの世界と、限界まで拡大した宇宙空間のマクロの世界の映像がなんら変わりなかったのだ。拡大も縮小も単数も複数も、同一のところに帰着するのだと思った。
ものが生まれ時とともに消えまた別の形で生まれ変わる。なにもかもがひとつのサイクルの中の工程である。こういったすごくあたりまえのそれ以上なんの答えもなさそうな流れの中に、物語性や一種の美意識を感じる。このイメージを目に見える形にして画面に定着させたいという気持ちは、自分の作品の制作のきっかけになっていると思う。
作品も有機的なものや無機的なもの、曲線的なものや直線的なもの、次々と姿を変えながら生まれてくる。いろんな状態を経過しつつも一つの一貫した連続した物語が展開されているのであり、それは一つの「宇宙」といえるのではないかと思っているのである。