neutron Gallery - 村井美々 展 『エホンノミライ7』 - 
2004/4/5Mon - 11Sun 京都新京極 neutron 5F gallery






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gallery neutron 代表 石橋圭吾

 昨年、つまり2003年において、村井美々の名は一躍地元関西ばかりか日本全国へ発信されるようになった。これだけ短期間に凄まじい勢いで制作・発表・さらには受賞を重ねることは極めて異例の事態であると共に、そのスピードは常軌を逸した?速度であったことは間違い無い。言う間でもなく村井の評価は写真と絵の具を使ったアニメーションによって一躍高まったのであるが、その手法のオリジナル性、作品としてのポップなテイストは「現代美術」にとどまらず幅広い支持層に訴えかけた。プロフィールを見ても分る様に、一人の作家が「アートアニュアル」と「越後妻有トリエンナーレ」と「FM802 STREET ARTISITS EXHIBITION」と「アミューズオーディション」(グランプリ受賞)の全てに参加するなど、不可能なことでさえあるように思われるが、村井はそれをいとも容易くやってのけた。容易くと言うと語弊が有るだろうが、少なくとも我々を含め関係者にはそう映る。まるで村井のアニメーションのテンポ、キャラクターそのままに、次から次へと展開して創造し、飄々と存在する村井自身はおそらくこの時代に相応しい作家の素養を持っているのであろう。
  しかしながら私(だけでないはず)が心配するのは、「この先」である。これだけのスピードで、メディアにも露出し、一部では青田買い的に目を付けられてしまった以上、作品とその制作スタイルは「消費」される道のりに載ったと言える。この点について、各作家によって立ち位置や見解が分かれるところではあるが、村井は自らの作品や生み出したものたちが「消費」されることに抵抗は感じていないばかりか、きちんとしたコンセンサスとプロセスを踏まえた上での商業展開は大いに望むところであるというスタンスである。なぜなら村井の作品はそれが原画などの平面であれ、Tシャツであれ、映像作品であれ、幅広い人の手に渡り、楽しんでもらうことが究極の目標であるからだ。つまりは、「コレクター」と呼ばれる特定の玄人だけが手にし、密かに楽しむタイプとは根本的に異なる。いや、コレクターが村井の作品を買ってはいけない理由はどこにも無いので、つまりは「コレクター」も「映像好き」も「かわいいもの好きの女の子」も同等に村井の作品を楽しむことができる、という事であろう。私は僭越ながら、これこそが究極であり理想の「アート」の在り方だと考える。「ストリート」だとか「アカデミック」だとか、そんな括りはあったとしても軽く飛び越え、純粋で明解で奥深いもの。村井は間違い無くその素養を持っていて、溢れ出んばかりのアイデアと努力によって人を魅了する作品を作ることができる。では、話を戻そう。問題は「この先」である。良くも悪くも村井美々のアニメーションは特徴的で、一見してそれと分る。だからこそ求められるのは、同じ形式や手法、そのくり返しで無く、次のアイデア、次の作品、そして次の村井美々なのである。作品や作家を消費(浪費)する・しない、あるいはされる・されないの問題で無く、彼女自身のスタイル、スピード、展開をもってして求められるものは時代のテンポと、世代を超えた新鮮で痛快な面白さなのである。
  この最大にして一抹の不安をよそに、村井は私の元に自らの企画書を持って来た。そこには驚くべきことに「水彩イラスト」とおもちゃで描いたアニメーションの部分画面が載っていた。私の不安は一瞬にして感嘆に変わり、改めて村井美々の素養を思い知ったのだ。ささいな日常の風景、出会い、一場面を思い描き、命を吹き込む行為。村井美々のアニメーションの動きは妙に楽し気で、活き活きとしている。平面としての絵画が動き出すとするなら、こうなるのであろう、とさえ感じる。「無感動」だなんてとんでもない!村井のアニメーションには愛と情熱と日々の感動がぎっしり詰まっている。今回、村井美々の新しい試みであるおもちゃ(「せんせい」という玩具で、磁気に反応して線を描くことができるマグネットボードのこと)を用いたアニメーションは、色彩が無く「線描」が主となるため、ドローイング的な趣で捉えることもできる。そこには村井の無限の可能性が詰まっているはずだ。