生命科学、哲学、そして美術の領域がクロスオーバーする表現者、安だち。自身の 染色体写真と、赤の全身タイツで撮影した写真との対比によって観客に生命の尊さと 自然の不思議を伝える。期間中、飯沢耕太郎氏らによるトークショー有り。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
インフルエンザが猛威をふるい、私達は医学の力を持ってしても為す術の無い状況を目の当たりにし、動揺し、混乱する。あるいは、DNAレベルでの品種改良された作物や食肉がスーパーに並んでいればその出所を気にせずにはおれず、できれば「安全な(とされる)」遺伝子組み替えのないものを選びたいと思う。しかし一方ではチューリップやバラ、あるいは競走馬など品種改良こそが命であり、交配という立派な人為的遺伝子操作は当然のものとして認知され、そこに抵抗は無い(おそらく一般的には)。私達が実際に口にし、食べ物として取り込むものには過剰に心配をし、観賞用の生物にはさして考えもしない。人間とは、かくも贅沢で身勝手な生き物だと感じざるを得ない。まるで生物を作る(クローン技術はもう実用されている)ことが現実になり、神の領域にでも踏み入れたかのごとく、人間は絶えず研究という名の元に、自然界の聖域に挑戦せずには居られないのだろうか。
安だちけい子は、もともと生物を研究していた。芸大を出て・・・の美術畑とは違った経歴を持つ。安だちは自身の研究対象から着想を得て、哲学や美術とシンクロしながら、自身の表現というものを生み出してきた。しかしここでいう「表現」とは作家性うんぬんの範囲で収まらず、生命科学、哲学、そして美術のそれぞれのクロスする領域の発表、とでも言えなくはない。例えば「繭」というモチーフは、それだけで生命の多様な側面を見せるが、そこに安だち自身の姿・存在も投影されている。また、今回出展する遺伝子写真(顕微鏡写真)も、そもそもは作家自身の血液を採取し、撮影されたものである。被写体として簡単に「遺伝子」あるいは「DNA」と捉えるのは簡単だが、それは他の誰でも無い、作家自身のものであるのだから安だちが言う様に、その染色体写真をもって「セルフポートレート」と言うのは全く間違っていない。近代の犯罪捜査を確立させたのが「指紋」であるなら、今やそれは「DNA」照合にとって変わろうとしている。私が、あなたが誰であるか、何ものであるかは全てDNAを見れば一目瞭然なのである。安だちのDNAを見るということは、すなわち安だちが何者かを知るようなものだ。ただし、それだけでは「芸術」の範疇に入れるのは難しいだろう。遺伝子写真は生物科学の本を開けばさして珍しいものでは無いであろうし、人間の数だけそれは撮影可能なものでもあるから。安だちが「表現者」たる所以は、むしろそういった出所を元に、自身の理論やパフォーマンスを織り交ぜ、様々な形態で、様々な場所で、万人に向けて発表を行うところにある。では、何を伝えようとしているのか。「生命倫理」や「科学の素晴らしさ」「人間の尊さ」も間違ってはいないだろうが、彼女は言葉で伝えきれるものを越えて、五感に訴えかける作品展示・行為をもって、私達に考えるきっかけを与えようとしているのだ。「生命とは?」「自然とは?」・・・これまでに数えきれない程議論されてきたこの普遍の問いが、まさしく核にある。そしてその答えを決定するのは容易なことではないし、安だちの目的でもない。日常の中にそのような漠然として、根本的な問題を考えるきっかけを作る事。それこそが、安だちの表現だと言っても過言ではないだろう。
「繭」をモチーフに毎回、各地で形を変えて展開される「繭プロジェクト」とは分けて、今回は「micro / macro cosmos project」と題し、写真という形での発表になる。「写真展」ではなく、写真を通じての発表と思って頂きたい。自身の細胞の顕微鏡写真(アナログ撮影)と新作(血液の赤をイメージした全身タイツを着ての自身の撮影/デジタルカメラ撮影)との対比により見る者のスケール感を混乱させ、遺伝子レベルの小宇宙と惑星レベルの大宇宙をリンクさせ、結果、生命あるいは種というものの存在はいかなるスケールにも共通し、普遍であると感じさせる試みになろう。飯沢耕太郎氏らによるトークイベントも予定。あらゆる側面から皆さんの体内をくすぐる発表になることを願う。