2年に一度、京都の現代美術ギャラリーが一同に介して自信の企画展を発表しあう、 『KYOTO ART MAP』。今年からニュートロンも初参加。その大舞台に登場するのは、 昨年2月の「ぬくもりのゆくえ」以来、急激に評価を高めて勢いに乗る宮永愛子。ナ フタリンによる造形は美しさとはかなさの同居するアートとして注目を集める。今回 は女性の「ブラジャー」と「レース」をモチーフに新作を発表する。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
昨年の2月、「ぬくもりのゆくえ」と題した個展によって、宮永の評価は確実に上がり、以後の数多い企画展への参加・出展によってその注目度は全国的なものになった。元来、一貫してシリカゲルやナフタリンという化学物質を使っての立体作品を作ってきたスタイルは変わらないのだが、やはり「ぬくもりのゆくえ」が一大転機となったのは否めない。これに至るまでは順調とは言いがたい時期があったが、縁あって一緒にこの企画を成功することが出来たことは私にとっても非常に大きな出来事である。
そしてその宮永は、今回、『KYOTO ART MAP 2004』の参加企画として、再びニュートロンの地下ギャラリーに登場する。昨年以降、制作をナフタリンに絞っているのだがそれは素材として扱いが熟練してきたことと無関係でなく、また、鑑賞者からすればそのはかなさと美しさが印象的で、宮永の作品=ナフタリン、と認識されるに充分のインパクトを残しているからだ。シリカゲルの方は時間の経過とともに色が変わり、そのひと粒ひと粒の存在が独特の造形を生み出す意味では面白いのだが、時間をコントロールする事が各会場の気温や湿度の状況によって多様で難しく、結果、成功と言えるに至った展示は少ない。一方、ナフタリンは制作において防毒マスクを着用する必要が有る程の毒性物質であるにも関わらず、宮永は果敢にその素材に挑んだ結果、造形(彫刻)における技術は格段にアップし、宝石のようなきらめきと透き通るような透明感を兼ね備えた唯一無二のオブジェが誕生することになった。「ぬくもりのゆくえ」では、実はその前に行った5階ギャラリーでの個展で展示した一羽の蝶の作品を抜擢し、制作を段階的に(ほぼ毎日、2ヶ月間)行うことによってそれぞれの蝶の差異を露にし、その結果、66体の蝶は制作順に崩壊・昇華して原型を留めないものから日数が浅く完全な形態のものまで、ずらりと一同に提示されることとなった。これは明らかに「時間の経過」による形態の変化を一瞬にして見せるという目的があると同時に、そのナフタリンの美しさ、はかなさを決定的に印象づける意図があった。これに成功し、以後、宮永は大阪のCASで行われた個展「まどろみがはじまるとき」では日常の履物をモチーフにしその持ち主である人物のアイデンティティーにまで考察を巡らし、さらには続く大阪府立現代美術センターへの出展では「鍵」をテーマに、またもや日常の「キー」となる物体とその消え行く様を見せた。ここで重要なのは、ナフタリンそのものを見せる出発点を出て以来瞬く間にその特性を活かし、そこから詩的な引用を導きだし、美術品としての在り様をひっそりと獲得してきた点にある。つまり、素材の珍しさは一時の驚きでしか無いが、彼女は既に視線を次のフィールドへ移し、ナフタリンという一素材を使った上での自分の表現を邁進させているように感じる。画家の絵筆や絵の具のようなものだろう。宮永=ナフタリンは決して間違っていないし、しばらくは作家に恩恵を与えるキャッチコピーでもあるだろうが、その先は、彼女本来の、本質的な制作意図に目が向けられるべきだ。すなわち、彫刻あるいは立体造形として、「在る」ことが大前提のものが、いずれ「無く」なるという事実。そこにこめられた様々なメッセージ。想い出や記憶、印象、人間の人生における通過点は常に形を変え、時間の経過とともに薄れ、やがて消えてしまうものである。彼女の作品が秀逸なのは、もちろん純粋に造形美もそうなのだが、「女性」的な感傷や、もののうつろい、存在の虚ろさなどが凝縮された佇まい、そして、だからこそなお一層美しく見えるナフタリンの輝きのせいである。あえて「女性」と書いたが、一部批判が出ようとも、私は宮永の作品における「女性」性は極めて重要なファクターだと感じずにはいられない。ジュエリーのような印象を受ける視覚的な美の追究に女性を感じるのも事実なら、物質としての存在に最終的にはこだわらないのもまた女性的である(あくまで私見です)。そんな彼女の新作は、「ブラジャー」をモチーフにすると言う。しかも我々男性にはその存在価値が装飾程度にしか分かりにくい「レース」とともに。これはもう、いよいよ本領発揮となるであろうか。