neutron Gallery - ヒラカワミチコ 展 『カシ→ ←カシ』- 
2004/6/22Tue - 27Sun 京都新京極 neutron B1 gallery

昨年、『カシ 展』にてワカメに生命の仮死状態を見い出し、セルフポートレートも交えてワカメに潜む美を見せたヒラカワ。今年はさらにワカメの細部に入り込み、前回の展示作品とのコラボレーティブな展開も見せる。





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gallery neutron 代表 石橋圭吾

 特殊な素材を使う作家は多々いるが、ワカメを用いて表現をする者はなかなかいないであろう。もちろん、ヒラカワにとって素材は「ワカメ」に限っているのではないのだが、近作での「仮死状態」をワカメに喩えて見せるユニークな試みは、作家を「=ワカメ」とイメージさせるには充分の働きである。悪い意味ではなく、このような素材と作家の結びつきは、現代美術を楽しむ側にとっても、有益であると思う。
  前回、ヒラカワは水槽の中のゲルに戻した実物のワカメのたゆたう様子と、写真による展示(ワカメの状態の変化を記録したものと、人物を水に浸して「仮死状態」をイメージしたもの)によって、「仮死」←→「蘇生」の図式を印象的に表現した。ここではワカメは「仮死」を連想させるモチーフとしてスポットを浴び、人間(動物)との対比によってその独特の生命力をアピールした。では今回はどのような図式かと言うと、前回を踏襲した上で、「ワカメ」そのものの質感。及びそこに内在するイメージに焦点が当てられる。あえて対比関係を持ち出すとすれば、今回ワカメと比較されるのは「毛髪」である。展示プランとしては、やはり写真が重要なファクターになる。ヒラカワはその経歴を見ても分る様に、主に写真という手段で表現活動の基盤を築いており、インスタレーションや立体的な表現の根本にも、実は2次元的な(あるいは記録的な)写真の存在が不可欠である。したがって、その2次元に感触や立体感を持たせる試みとして、3次元的な要素が加わることになる。今回は写真と実物のワカメのコラージュも出てくるというから、まさに的を得ている。逆に言えば、前回の展示中、ゲルに戻されたワカメが予想以上の生命力を発揮し、気泡が次々に沸き出し、ゲル全体を膨らまして持ち上げんばかりの増幅を見せたのだが、このようなアクシデントは(結果的にはワカメの蘇生力を象徴して面白かったと言えるのだが)、素材を扱う立体作家としてはいささか計算が足りなかったと言うこともできる。だが、私はあえてそのようなアプローチを肯定的に捉えたい。困惑したと同時に、私達はその生命力とエネルギーに感動すら覚えたのだ。科学実験のように、万事計算している結果が出るとは限らない、そんなアートがあったとしてもいいのではないかと思う。
  そこまで惚れ込んだワカメに対するアプローチは、当然鋭角的に研澄まされ、よりディテールに目線が向く。ヒラカワが今回見せようとするのは、ワカメに内在する「死」のイメージすなわちそれは「色気」でもある。時に人間の髪の毛は(特に女性の黒髪は)性的な象徴でもあり、また死のそれでもある。艶やかに、漆黒の輝きを静かに放つ手入れの行き届いた黒髪は(日本人なら)美しさと同居する畏怖の感覚を覚えずにはいられない。フェティシズムの領域でもその存在感は際立っている。
  さて、その黒髪と「ワカメ」である。何だか後者が心もとなく響く気持ちはさておき、その艶や「コシ」は負けていない。何より、ワカメは保存が出来る。保存、といっては味気ないが、要するに仮死状態を保ち、そこから見事に蘇生することが出来る。人間は(動物は)なかなかこう上手くはいかない。現在のバイオテクノロジーの全てを駆使すれば不可能ではないのだろうが、どうも身近ではない。その点、ワカメはとてもありふれていて、お手軽である。だがそのお手軽ワカメに、このような生命力と美しさが隠れていようとは・・・!?
  単に生物学的な比較にとどまらず、精神的なイメージの内在と比較も興味深い。黒髪と同じく、ヒラカワはワカメに「色気」と「死」へのかすかな憧憬、あるいは母親の胎内に回帰する本能的な欲求を見い出し、感じている。日本の主婦の多くは、味噌汁を作る時にそんな妄想を抱きながらワカメを戻しているのだろうか。それを食べる私達も、ワカメを箸で掬い上げる時にでも、生命の驚きとほのかな色気を味わわなくては、勿体無い。